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枯淡  作者: 水原伊織


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71.本当の幸せ

その夜。

取材続きの疲れがようやく落ち着いた頃、織と裕介は寝室に戻った。

織は、シャワーを浴びたあと、いつものように最低限の下着だけを身につけてベッドに腰を下ろした。


Tバック一枚という無防備な姿は、織にとっては“家の中の普通”である。

裕介にとっては、見慣れているはずなのに、いつも胸の奥が静かに熱くなる光景だった。


「……疲れただろ」


裕介がそう言いながら、そっと織の肩に手を添えた。

織は軽く首を振った。


「ううん。裕介が全部、支えてくれたから。むしろ安心してた。」


その言葉に、裕介は小さく息を吐き、織をそっと抱き寄せた。

織の細い背中が腕の中に収まると、二人の鼓動がゆっくりと重なっていくのが分かった。


織は、胸のあたりに顔を寄せ、静かに目を閉じた。


「落ち着く」


その声は、昼間の喧騒とはまるで別の世界のものだった。

裕介は、織の髪を指先で軽く梳きながら言った。


「俺もだよ」


織は、抱きしめられたまま、小さく笑った。


「……ねえ。芥川賞も、団鬼六賞も、すごいことなんだろうけど」

「うん」

「こうしてる時間のほうが、ずっと大事だと思っちゃう」


裕介は、織の背中をそっと撫でた。


裕介の手が、織の滑らかな背中をゆっくりと滑り降りた。

指先から伝わる彼女の肌の熱は、先ほどまでの穏やかな会話を、少しずつ熱を帯びた沈黙へと塗り替えていく。


「織」


名前を呼ぶ裕介の声は、低く、かすかに震えていた。

織は顔を上げ、彼を見つめた。

潤んだ瞳には、彼への全幅の信頼と、隠しきれない情熱が混ざり合っている。


裕介の指が、織の細い腰にかかった。唯一の衣類である薄い布地をなぞる。


「俺も、同じだよ」


重なり合った体温が、部屋の冷えた空気を溶かしていく。

織の柔らかな曲線が、裕介の逞しい体躯にぴたりと吸い寄せられた。

首筋に落とされる熱い口づけに、織は小さく吐息を漏らし、彼の背中に爪を立てた。


「裕介……」


互いの呼吸が、ひとつに重なる。

昼間の「作家」としての顔を脱ぎ捨て、ただの男と女として求め合う時間。

深い愛撫が繰り返されるたび、織の体は甘い痺れに支配され、思考は白い霧の向こうへと消えていった。


窓の外では、夜が深まっていく。

カーテンの隙間から差し込む月光が、絡まり合う二人のシルエットを淡く照らしていた。


----


受賞ラッシュが一段落したのは、団鬼六賞の授賞式から二週間ほど経った頃だった。

出版社からの取材依頼はまだ続いていたが、ピークのような怒涛のスケジュールはなくなり、織はようやく自分の机に落ち着いて座れるようになった。

パソコンを立ち上げ、お気に入りのキーボードに指を置く。


「……やっぱり、ここが一番落ち着く」


織は小さく呟いた。


裕介も、作詞の仕事と、出版社から頼まれている校正の仕事に戻っていた。

二人とも家に籠って、黙々と作業を進める。


キーボードの音。

紙をめくる音。

湯を沸かす音。

そんな小さな生活音が、家の中に心地よく響いていた。


「……なんか、やっと戻ってきたね」


織がコーヒーを淹れながら言うと、裕介は資料を閉じて伸びをした。


「俺は落ち着く」

「うん。私も」


二人は自然と笑い合った。



ただ、家に籠っていると運動不足になるので、散歩だけは欠かさなかった。

都内に出るときは、どうしても人目を気にしてしまう。


芥川賞作家。

団鬼六賞作家。

作詞家の夫。


その肩書きが、知らないところで勝手に歩き回っている。

だが、今住んでいる地方では、そんなものを知っている人はほとんどいない。


「この感じ、いいよね」


織が歩きながら言う。

「うん。誰も気にしないし、俺たちも気にしなくていい。」

「東京だと、ちょっと落ち着かないもんね」

「まあ、あれだけテレビに出たらな」


二人は笑い合いながら、川沿いの道をゆっくり歩いた。


風が冷たくて、織は裕介の腕にそっと手を添えた。

裕介は自然にその手を包み込む。

その仕草は、どんな賞よりも、どんな称賛よりも、織の胸を温かくした。


家に戻ると、またそれぞれの机に向かう。

織は新しい小説の構想をノートに書き始め、裕介は歌詞のフレーズをメモに走らせる。

二人とも、静かに、淡々と、しかし確かな熱を持って仕事をしていた。


「……やっぱり、こういう生活が好きだな」

織がぽつりと言うと、裕介はペンを置いて微笑んだ。


「俺も。賞とか肩書きとかより、こうして一緒に仕事してる時間が一番いい」

織はその言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


外の世界がどれだけ騒いでも、二人の生活は変わらない。

静かで、穏やかで、創作に満ちた日々。


それが、織と裕介の“本当の幸せ”だった。

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