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枯淡  作者: 水原伊織


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61/65

61.安心と依存の象徴

華のように、蝶のように。

指先を絡め合うたび、私はただ、彼の導くままに身をゆだねていた。


裕介は、その一節を読んだ瞬間、胸の奥がかすかに熱くなるのを感じた。

自分がモデルだと明言されているわけではない。


それでも、どこか“知っている温度”が行間に滲んでいて、

思わず視線をそらしたくなるほど、少しだけ恥ずかしかった。


買い出しの帰りに、駅前の書店で手に取った織の新刊。

小林ユキ名義の官能小説だ。

露骨なタイトルも、刺激的な装丁もないため、一見すると文芸書の棚に並んでいても違和感がない。

それでも書店はきちんと理解しているらしく、官能小説のコーナーにひっそりと収められていた。


その日の夕方。

裕介は、仕事部屋の椅子にもたれながら、思っていた。

――こんなものを、仕事部屋で読んでいる自分は何をしているんだろう。


股間に集まる熱を意識した瞬間、裕介は小さく息を吐いた。

滑稽というより、むしろ可笑しい。

大の大人が、恋人の書いた小説一つでこんなふうに振り回されている。

けれど、その“振り回される感じ”が、どこか悪くなかった。


----


リビングに出ると、織がソファに寝そべっていた。

上半身は裸で、黒のTバックだけを身につけている。


家ではいつも通りの姿のはずなのに、さっき読んだ新刊の余韻が残っているせいか、どこか違って見えた。

思わず、その身体に手を伸ばしてしまう。


織は抵抗するでもなく、ただ軽く目を細めて微笑んだ。

裕介は、胸元に顔を寄せる。


柔らかな体温と、織のほのかな香りがふっと鼻をくすぐり、

さっきまで仕事部屋で感じていた熱が、また静かに蘇ってくる。


織はその様子を見て、くすりと笑った。

まるで「読んだんでしょ」と言いたげな、余裕のある笑みだった。


----


その夜、裕介は久しぶりに、あの夢を見た。

薄暗い部屋の中で、織が静かに座っている。


表情は穏やかで、どこか現実よりも柔らかい。

裕介はその足元に膝をつき、織の手に触れようとする。


触れた瞬間、胸の奥に広がるのは、屈辱でも恐怖でもなく、

ただ、深い安堵だった。


――ああ、まただ。


夢の中の自分は、織の指先ひとつで動く。

呼ばれれば近づき、見つめられれば息を呑む。


織は何も命じない。ただ、そこにいるだけ。

それだけで、裕介は“飼われている”と理解する。


けれど、不思議と嫌ではなかった。

むしろ、現実よりも素直に、織に身を預けられる気がした。


織は夢の中で、微笑む。

その笑みは、現実の彼女よりも少しだけ優しくて、

少しだけ残酷だった。


「……また来たの?」


囁くような声が、胸の奥に落ちていく。

裕介は言葉を返せないまま、ただその手に額を寄せた。

その瞬間、夢はふっと途切れた。


目を覚ましたとき、胸の奥には

“支配される心地よさ”と

“そこから抜け出せない自分への戸惑い”が

静かに残っていた。


----


目を覚ました瞬間、胸の奥にまだ夢の残滓があった。

支配でも服従でもない、あの奇妙な安堵。

織の指先ひとつで動く自分。

呼ばれれば近づき、見つめられれば息を呑む。

“飼われている”という言葉が、なぜか心地よかった。


裕介はしばらく天井を見つめ、

その感覚をどう扱えばいいのかわからずにいた。


リビングに行くと、織はコーヒーを淹れていた。

いつもと同じ朝の光景なのに、

夢の中の彼女の影が、どこか重なって見える。


「おはよう、裕介」


織は振り返り、柔らかく笑った。

その笑顔が、夢の中の“少し残酷な優しさ”と重なり、胸がざわつく。


裕介は、マグカップを受け取りながら、ふと口を開いた。

「…また、あの夢を見た」


織は一瞬だけ動きを止め、興味深そうに首を傾けた。

「飼われてる夢?」


「……ああ」


織はカウンターに肘をつき、少しだけ意地悪そうに笑った。

「へえ。どんなふうに?」


裕介は言葉を探しながら、夢の中の感覚を思い返す。

「……織が座ってて、俺はその足元にいて……

呼ばれたら近づいて、触れられたら……安心するんだ」


織は驚くでもなく、笑うでもなく、

ただ静かに裕介を見つめた。


「安心、ね」

その言い方は、支配でも優位でもなく、裕介の心の奥をそっと撫でるような響きだった。


織はゆっくりと裕介の隣に腰を下ろした。

「……それってさ」

「ん?」

「私に支配されたいとかじゃなくて、預けたいってことなんじゃない?」


裕介は息を呑んだ。

その言葉は、夢の核心を突いていた。

織は続ける。


「だって裕介、私の前だと力抜けるでしょ。

夢って、そういうのが出るんだよ」


「……そうかもしれない」


織は微笑み、裕介の手をそっと握った。


「ねえ。飼われてる夢を見るの、別に悪いことじゃないよ。

むしろ……ちょっと嬉しい」


その言葉は、夢の中の“優しさと残酷さが混ざった微笑み”とは違い、

現実の織の、あたたかい体温を持っていた。

裕介はその手を握り返し、胸の奥のざわつきが静かに落ち着いていくのを感じた。

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