61.安心と依存の象徴
華のように、蝶のように。
指先を絡め合うたび、私はただ、彼の導くままに身をゆだねていた。
裕介は、その一節を読んだ瞬間、胸の奥がかすかに熱くなるのを感じた。
自分がモデルだと明言されているわけではない。
それでも、どこか“知っている温度”が行間に滲んでいて、
思わず視線をそらしたくなるほど、少しだけ恥ずかしかった。
買い出しの帰りに、駅前の書店で手に取った織の新刊。
小林ユキ名義の官能小説だ。
露骨なタイトルも、刺激的な装丁もないため、一見すると文芸書の棚に並んでいても違和感がない。
それでも書店はきちんと理解しているらしく、官能小説のコーナーにひっそりと収められていた。
その日の夕方。
裕介は、仕事部屋の椅子にもたれながら、思っていた。
――こんなものを、仕事部屋で読んでいる自分は何をしているんだろう。
股間に集まる熱を意識した瞬間、裕介は小さく息を吐いた。
滑稽というより、むしろ可笑しい。
大の大人が、恋人の書いた小説一つでこんなふうに振り回されている。
けれど、その“振り回される感じ”が、どこか悪くなかった。
----
リビングに出ると、織がソファに寝そべっていた。
上半身は裸で、黒のTバックだけを身につけている。
家ではいつも通りの姿のはずなのに、さっき読んだ新刊の余韻が残っているせいか、どこか違って見えた。
思わず、その身体に手を伸ばしてしまう。
織は抵抗するでもなく、ただ軽く目を細めて微笑んだ。
裕介は、胸元に顔を寄せる。
柔らかな体温と、織のほのかな香りがふっと鼻をくすぐり、
さっきまで仕事部屋で感じていた熱が、また静かに蘇ってくる。
織はその様子を見て、くすりと笑った。
まるで「読んだんでしょ」と言いたげな、余裕のある笑みだった。
----
その夜、裕介は久しぶりに、あの夢を見た。
薄暗い部屋の中で、織が静かに座っている。
表情は穏やかで、どこか現実よりも柔らかい。
裕介はその足元に膝をつき、織の手に触れようとする。
触れた瞬間、胸の奥に広がるのは、屈辱でも恐怖でもなく、
ただ、深い安堵だった。
――ああ、まただ。
夢の中の自分は、織の指先ひとつで動く。
呼ばれれば近づき、見つめられれば息を呑む。
織は何も命じない。ただ、そこにいるだけ。
それだけで、裕介は“飼われている”と理解する。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、現実よりも素直に、織に身を預けられる気がした。
織は夢の中で、微笑む。
その笑みは、現実の彼女よりも少しだけ優しくて、
少しだけ残酷だった。
「……また来たの?」
囁くような声が、胸の奥に落ちていく。
裕介は言葉を返せないまま、ただその手に額を寄せた。
その瞬間、夢はふっと途切れた。
目を覚ましたとき、胸の奥には
“支配される心地よさ”と
“そこから抜け出せない自分への戸惑い”が
静かに残っていた。
----
目を覚ました瞬間、胸の奥にまだ夢の残滓があった。
支配でも服従でもない、あの奇妙な安堵。
織の指先ひとつで動く自分。
呼ばれれば近づき、見つめられれば息を呑む。
“飼われている”という言葉が、なぜか心地よかった。
裕介はしばらく天井を見つめ、
その感覚をどう扱えばいいのかわからずにいた。
リビングに行くと、織はコーヒーを淹れていた。
いつもと同じ朝の光景なのに、
夢の中の彼女の影が、どこか重なって見える。
「おはよう、裕介」
織は振り返り、柔らかく笑った。
その笑顔が、夢の中の“少し残酷な優しさ”と重なり、胸がざわつく。
裕介は、マグカップを受け取りながら、ふと口を開いた。
「…また、あの夢を見た」
織は一瞬だけ動きを止め、興味深そうに首を傾けた。
「飼われてる夢?」
「……ああ」
織はカウンターに肘をつき、少しだけ意地悪そうに笑った。
「へえ。どんなふうに?」
裕介は言葉を探しながら、夢の中の感覚を思い返す。
「……織が座ってて、俺はその足元にいて……
呼ばれたら近づいて、触れられたら……安心するんだ」
織は驚くでもなく、笑うでもなく、
ただ静かに裕介を見つめた。
「安心、ね」
その言い方は、支配でも優位でもなく、裕介の心の奥をそっと撫でるような響きだった。
織はゆっくりと裕介の隣に腰を下ろした。
「……それってさ」
「ん?」
「私に支配されたいとかじゃなくて、預けたいってことなんじゃない?」
裕介は息を呑んだ。
その言葉は、夢の核心を突いていた。
織は続ける。
「だって裕介、私の前だと力抜けるでしょ。
夢って、そういうのが出るんだよ」
「……そうかもしれない」
織は微笑み、裕介の手をそっと握った。
「ねえ。飼われてる夢を見るの、別に悪いことじゃないよ。
むしろ……ちょっと嬉しい」
その言葉は、夢の中の“優しさと残酷さが混ざった微笑み”とは違い、
現実の織の、あたたかい体温を持っていた。
裕介はその手を握り返し、胸の奥のざわつきが静かに落ち着いていくのを感じた。




