60.無我夢中で貪る夢
静まり返った寝室で、織は裕介の胸に耳を当てたまま、しばらく目を閉じていた。
その呼吸のリズムを聞きながら、彼女の中でひとつの感情が形を成していく。
――嫉妬されることが、こんなにも“今の自分”を照らすなんて。
過去の記憶を素材にしてきた彼女にとって、“今”がこんなにも濃く、熱く、作品になるほどの重みを持つのは久しぶりだった。
織はそっと身を起こし、枕元のノートを手に取る。
薄暗い部屋の中で、ペン先が静かに走り始めた。
これまでの官能小説は、
・過去の体験
・記憶の断片
・想像で補った“物語”
が中心だった。
だがこの夜、織は初めて“今の自分”に強く揺さぶられた。
嫉妬されること。
求められること。
自分が誰かの「現在」になっていること。
その感情が、彼女の筆を自然と“現在形”へと向かわせる。
織は気づいてしまった。
裕介の嫉妬は、彼女の過去を否定するものではなく、「今の織を抱きしめたい」という、とても人間的で、温かい感情だということに。
その“揺れ”は、作家にとって最高の素材だった。
これまでの織の作品は、強く、奔放で、どこか達観した女性像が多かった。
だが今、彼女は気づく。
――自分もまた、誰かに揺らされる側の人間なのだと。
その弱さ、脆さ、愛されることの怖さ。
それらが作品に新しい深みを与え始める。
織は、ふと裕介の寝顔を見た。
その穏やかな表情に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……こんなの、書くしかないじゃん」
小さく呟く。
それは、彼女が“自分の感情”を素材にしている証だった。
やがて、裕介が寝返りを打ち、織の腰に腕を回す。
無意識のその仕草に、織は思わず笑ってしまう。
「…ほんと、ずるいよね。裕介って」
その声には、作家としての興奮と、一人の女性としての幸福が、静かに混ざり合っていた。
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あの夜から数日後、織は机に向かう時間が増えた。
まるで胸の奥に溜まった熱をどうにか言葉に変換しようとするような、そんな集中の仕方だった。
裕介は、コーヒーを淹れながらその背中を見ていた。
織の肩はいつもより少しだけ緊張していて、ペン先は迷いながらも、どこか確信を持って紙の上を走っていた。
「……書けてる?」
「うん。書けてる。なんかね……今までと違うの」
織はそう言って、少し照れたように笑った。
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織の新作は、これまでの小林ユキ名義の作品とは明らかに違っていた。
登場人物の息遣いが近い。
触れ合う手の震えが、以前よりずっと繊細に描かれている。
そして何より、“誰かに揺らされる女性”が初めて物語の中心に立っていた。
織自身が、揺らされているからだ。
原稿を送った翌日、編集者の三浦から電話が来た。
「上条さん……これ、本当にあなたが書いたんですか?」
開口一番、その言葉だった。
織は思わず笑ってしまう。
「どういう意味?」
「いや、悪い意味じゃなくて。むしろ逆です。文体が……すごく変わってる。前よりずっと、感情が近い。読んでて、胸がざわつくんですよ」
三浦は続けた。
「これ、過去じゃなくて“今”を書いてますよね?」
織は一瞬だけ言葉に詰まった。
裕介がキッチンでこちらを見ている。
その視線を感じながら、織は小さく息を吸った。
「……そうかもね」
佐伯は驚いたように息を呑む。
「上条さん、こんな書き方できたんですね。正直、びっくりしてます。でも……すごくいい。読者も絶対気づきますよ。“今のあなた”が書いてるって」
電話を切ったあと、織はしばらく黙っていた。
裕介がそっと近づく。
「褒められた?」
「うん……褒められた。けど……なんか、怖い」
「怖い?」
「だって、こんなに“今の私”が出ちゃってるなんて思わなかったから」
織は胸に手を当て、少しだけ俯いた。
「……裕介のせいだよ」
「俺の?」
「うん。あの夜から、書くときに……あなたの顔が浮かぶの」
その言葉は、照れでも冗談でもなく、作家としての本音だった。
裕介は、織の肩にそっと手を置いた。
「……悪い?」
「ううん。むしろ……困ってる。こんなに“今”に影響されるなんて思わなかったから」
織はゆっくりと顔を上げ、裕介を見つめた。
「でもね……書きたいの。今の私を、ちゃんと作品にしたい」
その瞳には、作家としての覚悟と、一人の女性としての揺れが同時に宿っていた。




