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枯淡  作者: 水原伊織


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58.戻らない場所と、帰る場所

作家としての織は順調だった。

新刊が出るたびにSNSで話題になり、編集部からの依頼も絶えない。


裕介もまた、作詞家としての仕事が増え、校正の仕事と合わせても、会社員時代よりずっと自由で、

ずっと“自分の言葉”で生きている実感があった。


そんなある日の午後、スマホが震えた。

画面には、見慣れた名前が表示されていた。


──彩。


拒否しているわけではない。

ただ、必要な連絡以外は来ない関係になっていた。


「美が、卒業したよ」


短いメッセージだった。

それだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

織はキーボードを打つ手を止め、裕介の表情をちらりと見たが、何も言わなかった。


言葉を挟むべきではないと、わかっている顔だった。


裕介は、静かにスマホを置いた。


「……行ってくる」


織はただ、うなずいた。


----


元の自宅の前に立つのは、久しぶりだった。


玄関の呼び鈴を押すと、彩が出てきた。

驚いたように目を見開き、その後ろから、美が顔をのぞかせる。


「……お父さん?」


裕介は、手に持っていた封筒を差し出した。


「卒業、おめでとう。これ……少しだけど、使ってくれ」


彩が封筒を受け取った瞬間、中身の重さに気づいたのだろう。

目を見開き、言葉を失った。

「ちょ、ちょっと……裕介、これ……」

「いいんだ。困ったことがあったら、言ってくれ。俺にできることなら、何でもする」


美は封筒を見つめ、そのあと、裕介の顔をじっと見た。


「……ありがとう」

その声は、少し大人びていた。

もう“子ども”ではないのだと、

その一言で理解した。

彩はまだ戸惑っていたが、裕介はそれ以上何も言わなかった。


「じゃあ……行くよ」


玄関を出て、扉が閉まる音を背中で聞いた。

胸の奥に、言葉にならない痛みが広がる。

後悔でも、未練でもない。

ただ、

“もう戻らない場所”を確認しただけの痛みだった。

裕介は深く息を吸い、織の待つ部屋へ向かって歩き出した。


----


玄関の扉を閉めた瞬間、裕介はようやく息を吐いた。

胸の奥に残っていたざらつきが、まだ完全には消えていない。


部屋に戻ると、織はソファに座り、コーヒーを飲みながらこちらを見上げた。


「おかえり」


その声は、いつもと変わらない。

変わらないのに、どこか安心する。

裕介が靴を脱ぎ、リビングに入ったところで、織はカップを置き、少しだけ首を傾けた。


「……で? いくら置いてきたの?」


裕介は思わず足を止めた。


「……なんでわかるの」

「だって裕介、そういう顔してるもん。“やりすぎたかな”って顔」


織はくすっと笑った。

責めるでもなく、呆れるでもなく、

ただ、裕介の性質を知っている人間の笑い方だった。


「……百万円」

「ほらね。絶対そんなもんだと思った」


織は肩をすくめ、わざとらしくため息をつく。


「裕介ってさ、元家族にはやたら太っ腹だよね。私にはコーヒー淹れてくれるくらいなのに」


その言い方があまりにも軽くて、裕介は思わず笑ってしまった。


「……コーヒーじゃ足りない?」

「うん。百万円の彼女になりたい」


織は真顔で言い、次の瞬間、ふっと笑った。


その笑顔を見た瞬間、胸の奥に残っていた重さが、すっと溶けていくのがわかった。


「……ただいま、織」

「おかえり。ちゃんと帰ってきたね」


織は立ち上がり、裕介の胸に軽く額を押し当てた。

その仕草が、どんな言葉よりも優しかった。


----


織の書く小説には、いつも二つの顔があった。

文芸作品では、静かで、深くて、どこか孤独な世界を描く。


一方で、小林ユキ名義の官能小説は、

まるで別人のように奔放で、体温が高く、


ときに読んでいるこちらが息を呑むほど生々しい。


裕介は、その両方に惹かれていた。

惹かれるほどに、胸の奥がざわついた。

官能小説の中に描かれる“過去の体験”。


自分の知らない織。

自分が触れたことのない織の身体の記憶。


ページをめくるたび、嫉妬とも焦燥ともつかない感情が、胸の奥で静かに膨らんでいく。


「……これ、本当にあった話なの?」

思わず口にすると、

織はソファで足を組みながら、

あっけらかんとした声で答えた。


「んー? まあ、あったり、なかったり。

全部が全部じゃないよ。

でも、書くときに思い出すことはあるかな」


その軽さが、逆に胸をざわつかせる。


「……嫉妬してるの?」


織は振り返り、少しだけ意地悪そうに笑った。

裕介は言葉に詰まる。


否定するのも違うし、肯定すれば負けを認めるようで、どちらも選べなかった。

織はそんな裕介の沈黙を見て、くすっと笑った。


「大丈夫だよ。過去は過去。今、私が一緒にいるのは裕介なんだから」


その言い方があまりにも自然で、あまりにも軽くて、逆に胸が締めつけられた。


織は、過去を恥じてもいないし、隠しもしない。

それが彼女の強さであり、魅力であり、そして、裕介を不安にさせる理由でもあった。


「……でもさ」


織はコーヒーを口に運びながら、

ふと真顔になる。

「私の過去に嫉妬するってことは、それだけ私のこと、ちゃんと見てくれてるってことでしょ?」



その言葉に、裕介は息を呑んだ。


「だったら、悪くないよ。むしろ……ちょっと嬉しい」

織はそう言って、何事もなかったようにキーボードに向き直った。

その背中を見つめながら、裕介は胸の奥のざわつきが、嫉妬だけではなく、

もっと複雑で深い感情に変わっていくのを感じていた。

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