表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
枯淡  作者: 水原伊織


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

56/69

56.二人で帰る部屋

力はしばらく黙っていた。

グラスの氷が溶け、かすかな音を立てる。

その音が消えたころ、彼はふっと息を吐いた。


「……悪かったな。試すような真似をして」


その言葉は、さっきまでの鋭さとは違い、どこか照れくさそうだった。


織が驚いたように父を見る。


雪も、少しだけ目を細めた。


力は続けた。


「俺だって、人のこと言えるような大した人間じゃねぇ。仕事ばっかで家のことは雪に任せきりだったし、織にも寂しい思いをさせた。…だからこそ、余計に気になるんだよ」


その声には、父親としての後悔と、娘への不器用な愛情が滲んでいた。


裕介はゆっくりとうなずいた。


「…当然だと思います。娘さんを大事に思っているからこそ、ですよね」


力は少しだけ目を見開き、すぐに視線をそらした。


「……まあ、そういうこった」


その言い方はぶっきらぼうだが、そこにある感情はまっすぐだった。

裕介は、胸の奥に静かな熱が灯るのを感じた。


父親なら、誰だってこうなる。

自分にも、美という娘がいるから分かることだ。


そう思うと、力の態度がむしろ自然に思えた。


織は二人のやり取りを見つめながら、どこか安心したように息をついた。


雪はカウンター越しに微笑み、店内の空気はようやく柔らかさを取り戻していく。


----


力がぶっきらぼうに視線をそらしたあと、店内にはしばしの静けさが落ちた。


その沈黙を破ったのは、雪の柔らかな声だった。


「……いいじゃないの、力。あんたがそんなに構えるから、余計に緊張するのよ」


雪はカウンター越しに二人を見つめ、ゆっくりと微笑んだ。


その笑みは、誰かを試すためのものではなく、ただ“見守る”という姿勢そのものだった。


「織がね、あんたと一緒にいるときの顔、私はずっと見てきたのよ」


織が驚いたように目を瞬かせる。

雪は続けた。


「前よりずっと、いい顔してる。無理してないし、背伸びもしてない。自然に笑ってる。……それだけで、私は十分よ」


その言葉は、力の鋭さとはまったく違う重みを持っていた。

押しつけがましくないのに、核心だけを静かに照らし出す。


雪の言葉は、責めるでもなく、許すでもなく、ただ“見てきた事実”をそのまま差し出しているだけだった。


「それにね、裕介さん」


雪は少しだけ首を傾け、穏やかな声で続けた。


「織が誰かと一緒に生きたいと思えるなんて、そう簡単なことじゃないのよ。あの子は、強いようでいて、案外不器用だから」


織が小さく抗議するように眉を寄せるが、雪は気にせず微笑んだ。


「だから…ありがとうね。織を大事にしてくれて」


その一言に、裕介は言葉を失った。


力の問い詰めとは違う種類の重さが、静かに胸に落ちていく。

力は照れ隠しのように鼻を鳴らした。


「……雪がそう言うなら、俺はもう何も言わん」


雪は軽く肩をすくめた。


「最初からそうすればいいのよ、あんたは」


店内の空気がようやく緩み、織はほっとしたように息をついた。

裕介はその横顔を見ながら、“家族になる”ということの重さと温かさを、同時に噛みしめていた。


----


織と並んで歩く。

街灯の下を通るたび、二人の影が伸びたり縮んだりする。


織は何も言わない。


裕介も言葉を探せなかった。


力の言葉は厳しかったが、理不尽ではなかった。

雪の言葉は温かかったが、甘やかしではなかった。


その両方が胸の中で混ざり合い、どうしようもなく切なさだけが残った。


「……大丈夫?」


織が小さく尋ねる。


「大丈夫だよ」


そう答えながら、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

大丈夫と言うしかない。


でも、本当は違う。


認められたわけでも、許されたわけでもない。

ただ、入口に立っただけだ。


それでも、織は隣にいる。


その事実が、逆に切なさを深くした。


----


玄関の鍵を開ける音が、やけに大きく響いた。

靴を脱ぎ、いつもの和室へ向かう。


二組の布団が並んでいる光景は、いつもと変わらないはずなのに、今日はどこか胸に刺さった。


織がそっと振り返る。


「……ごめんね。お父さん、ああいう人だから」

「いや、違うよ。あれでいいんだと思う。娘を持つ父親なら、当然だよ」


言葉にすると、胸の奥の切なさが少しだけ形を持った。

織はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ目を伏せた。


「……ありがとう」

その声が、余計に切なかった。


守りたいと思った。

でも、守れるのかという不安も同時に湧いた。


布団に腰を下ろすと、今日の出来事が一気に押し寄せてくる。


雪の微笑み、力の視線、織の震える指先。

全部が胸の奥で重なり、言葉にならない感情だけが残った。


切ないのは、きっと“幸せに触れたから”だ。


その幸せを守れるかどうか、まだ自信がないからだ。


織が隣に座り、そっと裕介の手を握った。

その温度に、ようやく息ができた気がした。


----


織が裕介の手を握ったまま、そっと身体を寄せた。

その動きは迷いがなく、けれどどこか切なさを含んでいた。


裕介はその温度に引き寄せられるように、織の肩を抱き寄せる。

胸の奥に溜まっていた不安も、緊張も、言葉にならないまま、抱きしめた腕の中でほどけていく。


「……怖かった?」


織が小さく囁く。


「少しだけ。でも……織が隣にいたから、大丈夫だった」


その答えに、織の指が裕介の背中をぎゅっと掴んだ。

まるで、離したくないと言うように。

顔を上げた織の瞳は、さっきまでの不安の影を残しながらも、確かな熱を宿していた。

裕介はその視線に引き寄せられ、そっと唇を重ねた。


最初は触れるだけの、確かめるようなキス。

けれど、織がわずかに息を吸い、裕介の胸元を掴んだ瞬間、二人の距離は一気に縮まった。


抱きしめる腕に力が入る。

織も同じ強さで抱き返す。

互いの体温が重なり、切なさが熱へと変わっていく。


言葉はいらなかった。

今日の夜だけは、互いがここにいるという事実だけを確かめたかった。


織の指先が裕介の頬をなぞり、裕介はその手を包み込むように握る。

もう一度、深くキスを交わす。


それは、ただ“生きて隣にいる”という確かな実感を分け合うためのものだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ