55.家族になる夜
裕介の書く歌詞は、どれも退廃的で、刹那的で、救いがない。
それでも──いや、だからこそ、
「それでも生きなければならない」という微かな執念のようなものが、言葉の底に確かに流れていた。
希望を語らない。
未来を約束しない。
ただ、今日をどうにかやり過ごすための呼吸だけが、静かに紙の上に刻まれていく。
…誰のために生きる?…
…このまま目が醒めなくてもいい…
…愛というものは、形にすると消える…
…ゾンビは何も語らない…
…意味はない、穢される時間には…
…どうにでもなれ、狂っている世界に興味はない…
…今、あきらめているのは、なんだ?…
…まだ、見ぬ未来が、腐る…
その乾いた温度が、今の社会の空気と奇妙に噛み合っていた。
SNSでは「この歌詞、わかりすぎてつらい」「刺さる」という声が増え、編集部からは次々と新しい依頼が届くようになった。
本来の出版社の業務に加えて、裕介は歌詞の仕事まで抱えるようになった。
それでも、裕介は淡々とこなしていく。
集中すれば、言葉は自然と形になった。
織は、その姿を見つめながら、
胸の奥に静かな誇りを感じていた。
——裕介の本来の芸術性を開花させたのは、私だ。
そう思うと、自分の中にも、知らなかった熱が灯るようだった。
裕介が言葉を紡ぐたび、織はその背中を見て、自分の選択が間違っていなかったことを確信していた。
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退職届を総務に提出した瞬間、裕介は胸の奥で小さく息を吐いた。
引き止められることも、特別な言葉をかけられることもない。
ただ、書類が受理され、事務的な説明が淡々と続くだけだった。
会社を出ると、冬の空気が頬に触れた。
冷たいのに、不思議と痛くない。
今日から作詞家と名乗るのか、それとも織のマネージャーか。
肩書きはどうでもよかった。
どちらにしても、もう「会社員の裕介」ではない。
自分の中で何かが静かに切り替わっていくのを感じた。
これから先の生活がどうなるのか、明確な見通しはない。
だが、不安よりも、奇妙な解放感のほうが勝っていた。
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マンションに戻ると、織はいつものように机に向かっていた。
裕介の足音に気づき、振り返る。
「……出してきた」
「そう」
織はそれ以上何も言わなかった。
けれど、その横顔には、わずかな安堵と、抑えきれない誇りが滲んでいた。
裕介はコートを脱ぎ、机の隣に腰を下ろす。
これからの肩書きが何であれ、自分が向かう場所は、もうここしかないのだと、静かに理解していた。
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玄関を入ってすぐ右の部屋が、今日から裕介の仕事部屋になった。
机と椅子を置けば十分な広さで、原稿や資料を広げてもまだ余裕がある。
反対側にも寝室用の部屋があるが、そこはずっと使われていない。
二人が眠るのは、リビングと地続きの和室だ。
襖を開ければすぐ手が届く距離に、二組の布団が敷かれている。
リビングは、ほとんど織の居場所だった。
作業机、ノートPC、散らばった資料、飲みかけのマグカップ。
ここで執筆も、食事も、休憩も完結する。
生活の中心が、この部屋にすべて集まっている。
裕介は、仕事部屋の扉を開けたり閉めたりしながら、この家の空気を改めて吸い込んだ。
会社員としての生活は終わった。
これからは、この空間で言葉を紡ぎ、織と同じ時間の流れの中で生きていく。
そのことが、不思議なほど自然に思えた。
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籍は入れていない。
けれど、生活はもう事実婚のように落ち着いていた。
同じ部屋で眠り、同じ空気の中で仕事をする。
形式よりも、積み重ねた日々のほうがよほど確かなものに思えた。
それでも、けじめというものはある。
裕介は、織の母・雪に挨拶へ行くことにした。
「…行くの?」
織が湯飲みを両手で包みながら、少しだけ目を伏せた。
「行く。言わなきゃいけない、と思っている」
織は短く息を吸い、うなずいた。
その横顔には、不安と誇りが入り混じったような影があった。
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夜になり、二人はスナック雪へ向かった。
暖簾をくぐると、店内はいつもの柔らかな照明に包まれていた。
カウンターの奥でグラスを拭いていた雪が、二人に気づいて目を細める。
「……あら。珍しい」
その声は穏やかだったが、どこか探るような静けさがあった。
裕介が口を開こうとしたそのとき、奥の席から低い声が響いた。
「おう。織…来たのか」
振り向くと、織の父・力が座っていた。
グラスを片手に、こちらをじっと見ている。
その視線は、歓迎でも拒絶でもなく、ただ“父親としての覚悟”だけが静かに宿っていた。
織が小さく息を飲む。
裕介は一歩前に出た。
「…お話しさせてください」
雪はグラスを置き、力は無言で姿勢を正した。
店内の空気が、ゆっくりと張りつめていく。
二人の前に立つその瞬間、裕介はようやく理解した。
籍を入れるかどうかではなく、これは“家族になる”ということそのものなのだと。
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力はグラスを置き、ゆっくりと裕介を見据えた。
その目には、酒の色よりもずっと濃い、父親としての重さが宿っていた。
「……で、お前。前の奥さんとのことは、どうなったんだ?」
店内の空気が一瞬止まった。
織がわずかに肩を震わせる。
雪も手を止め、カウンター越しに二人を見つめている。
逃げ道はない。
裕介は、真正面からその問いを受け止めた。
「…離婚しました。もう、完全に終わっています」
力は目を細める。
「終わってる、ね。じゃあ聞くが、その“終わり”は、お前の中で片がついてるのか?
織を巻き込むような未練や、後始末の残り火はないんだな?」
言葉は荒くない。
だが、ひとつひとつが鋭く、逃げ場を与えない。
裕介は息を吸い、静かに答えた。
「…未練はありません。あの結婚は、もう続けられないところまで来ていました。
僕の責任もあります。でも、織を巻き込むつもりはなかった。結果的にそうなってしまったのは、僕の弱さです」
織が小さく裕介を見上げる。
その横顔には、痛みと誇りが同時に浮かんでいた。
力はしばらく黙っていた。
グラスの氷が、ひとつだけ音を立てて沈む。
「…弱さを認めるのはいいんだけどな」
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力は裕介の答えを聞き終えても、表情を緩めなかった。
グラスを指先で軽く回しながら、低い声で続ける。
「……じゃあ、もうひとつ聞く。
お前、前の奥さんと別れた理由はなんだ?」
織が小さく息を呑む。
雪も視線を落とし、店内の空気がさらに静まる。
裕介は逃げなかった。
むしろ、逃げられないとわかっていた。
「……価値観の違いです。
僕が仕事に逃げて、向き合うべきことから目をそらしていた。
それが積み重なって、壊れました」
力は眉をひそめる。
「価値観の違い、ね。便利な言葉だ。
誰だってそう言えば済む。
だが──織と同じことを繰り返さない保証はあるのか?」
その言葉は鋭いが、怒鳴り声ではない。
むしろ、静かに刺さる。
裕介は一度だけ目を閉じ、ゆっくりと開いた。
「……保証なんて、できません。
でも、逃げないと決めました。
織と一緒にいる以上、同じことはしない。
しないように努力する。
それしか言えません」
力はすぐには返事をしなかった。
沈黙が、店の照明よりも重く落ちる。
「じゃあ聞く。織が倒れたらどうする?
仕事がうまくいかなくなったら?お前の歌詞が売れなくなったら?
金が尽きたら?全部抱える覚悟はあるのか?」
ひとつひとつの問いが、まるで拳のように裕介の胸に打ち込まれる。
織は耐えきれず、裕介の袖をそっとつまんだ。
止めたいわけではない。
ただ、そばにいるという合図のように。
裕介はその温度を感じながら、力をまっすぐ見た。
「……あります。
全部抱える覚悟があります。
逃げません。
織と生きると決めたので」
力はしばらく裕介を見つめていた。
その視線は、試すようであり、測るようであり、そしてどこか、父親としての祈りにも似ていた。
やがて、力はグラスを口に運び、ひと口だけ飲んだ。
「……まあ、言うだけなら誰でもできる。
だが─言わないやつよりは、まだマシだ」
雪がふっと笑い、織は小さく肩を落とした。
裕介は、胸の奥の緊張が少しだけほどけていくのを感じた。




