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枯淡  作者: 水原伊織


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55/64

55.家族になる夜

裕介の書く歌詞は、どれも退廃的で、刹那的で、救いがない。


それでも──いや、だからこそ、


「それでも生きなければならない」という微かな執念のようなものが、言葉の底に確かに流れていた。


希望を語らない。

未来を約束しない。

ただ、今日をどうにかやり過ごすための呼吸だけが、静かに紙の上に刻まれていく。


…誰のために生きる?…

…このまま目が醒めなくてもいい…

…愛というものは、形にすると消える…

…ゾンビは何も語らない…

…意味はない、穢される時間には…

…どうにでもなれ、狂っている世界に興味はない…

…今、あきらめているのは、なんだ?…

…まだ、見ぬ未来が、腐る…


その乾いた温度が、今の社会の空気と奇妙に噛み合っていた。


SNSでは「この歌詞、わかりすぎてつらい」「刺さる」という声が増え、編集部からは次々と新しい依頼が届くようになった。


本来の出版社の業務に加えて、裕介は歌詞の仕事まで抱えるようになった。


それでも、裕介は淡々とこなしていく。

集中すれば、言葉は自然と形になった。

織は、その姿を見つめながら、

胸の奥に静かな誇りを感じていた。


——裕介の本来の芸術性を開花させたのは、私だ。

そう思うと、自分の中にも、知らなかった熱が灯るようだった。


裕介が言葉を紡ぐたび、織はその背中を見て、自分の選択が間違っていなかったことを確信していた。


----


退職届を総務に提出した瞬間、裕介は胸の奥で小さく息を吐いた。

引き止められることも、特別な言葉をかけられることもない。

ただ、書類が受理され、事務的な説明が淡々と続くだけだった。


会社を出ると、冬の空気が頬に触れた。

冷たいのに、不思議と痛くない。


今日から作詞家と名乗るのか、それとも織のマネージャーか。

肩書きはどうでもよかった。


どちらにしても、もう「会社員の裕介」ではない。


自分の中で何かが静かに切り替わっていくのを感じた。

これから先の生活がどうなるのか、明確な見通しはない。

だが、不安よりも、奇妙な解放感のほうが勝っていた。


----


マンションに戻ると、織はいつものように机に向かっていた。

裕介の足音に気づき、振り返る。


「……出してきた」


「そう」


織はそれ以上何も言わなかった。

けれど、その横顔には、わずかな安堵と、抑えきれない誇りが滲んでいた。


裕介はコートを脱ぎ、机の隣に腰を下ろす。

これからの肩書きが何であれ、自分が向かう場所は、もうここしかないのだと、静かに理解していた。


----


玄関を入ってすぐ右の部屋が、今日から裕介の仕事部屋になった。

机と椅子を置けば十分な広さで、原稿や資料を広げてもまだ余裕がある。

反対側にも寝室用の部屋があるが、そこはずっと使われていない。


二人が眠るのは、リビングと地続きの和室だ。

襖を開ければすぐ手が届く距離に、二組の布団が敷かれている。


リビングは、ほとんど織の居場所だった。

作業机、ノートPC、散らばった資料、飲みかけのマグカップ。

ここで執筆も、食事も、休憩も完結する。

生活の中心が、この部屋にすべて集まっている。


裕介は、仕事部屋の扉を開けたり閉めたりしながら、この家の空気を改めて吸い込んだ。


会社員としての生活は終わった。

これからは、この空間で言葉を紡ぎ、織と同じ時間の流れの中で生きていく。

そのことが、不思議なほど自然に思えた。


----


籍は入れていない。

けれど、生活はもう事実婚のように落ち着いていた。

同じ部屋で眠り、同じ空気の中で仕事をする。

形式よりも、積み重ねた日々のほうがよほど確かなものに思えた。


それでも、けじめというものはある。

裕介は、織の母・雪に挨拶へ行くことにした。


「…行くの?」


織が湯飲みを両手で包みながら、少しだけ目を伏せた。


「行く。言わなきゃいけない、と思っている」

織は短く息を吸い、うなずいた。

その横顔には、不安と誇りが入り混じったような影があった。


----


夜になり、二人はスナック雪へ向かった。

暖簾をくぐると、店内はいつもの柔らかな照明に包まれていた。


カウンターの奥でグラスを拭いていた雪が、二人に気づいて目を細める。


「……あら。珍しい」

その声は穏やかだったが、どこか探るような静けさがあった。


裕介が口を開こうとしたそのとき、奥の席から低い声が響いた。


「おう。織…来たのか」

振り向くと、織の父・力が座っていた。


グラスを片手に、こちらをじっと見ている。

その視線は、歓迎でも拒絶でもなく、ただ“父親としての覚悟”だけが静かに宿っていた。


織が小さく息を飲む。

裕介は一歩前に出た。

「…お話しさせてください」

雪はグラスを置き、力は無言で姿勢を正した。

店内の空気が、ゆっくりと張りつめていく。

二人の前に立つその瞬間、裕介はようやく理解した。

籍を入れるかどうかではなく、これは“家族になる”ということそのものなのだと。


----


力はグラスを置き、ゆっくりと裕介を見据えた。

その目には、酒の色よりもずっと濃い、父親としての重さが宿っていた。


「……で、お前。前の奥さんとのことは、どうなったんだ?」

店内の空気が一瞬止まった。


織がわずかに肩を震わせる。

雪も手を止め、カウンター越しに二人を見つめている。

逃げ道はない。

裕介は、真正面からその問いを受け止めた。


「…離婚しました。もう、完全に終わっています」


力は目を細める。

「終わってる、ね。じゃあ聞くが、その“終わり”は、お前の中で片がついてるのか?

織を巻き込むような未練や、後始末の残り火はないんだな?」


言葉は荒くない。

だが、ひとつひとつが鋭く、逃げ場を与えない。

裕介は息を吸い、静かに答えた。


「…未練はありません。あの結婚は、もう続けられないところまで来ていました。

僕の責任もあります。でも、織を巻き込むつもりはなかった。結果的にそうなってしまったのは、僕の弱さです」


織が小さく裕介を見上げる。

その横顔には、痛みと誇りが同時に浮かんでいた。


力はしばらく黙っていた。

グラスの氷が、ひとつだけ音を立てて沈む。


「…弱さを認めるのはいいんだけどな」


----


力は裕介の答えを聞き終えても、表情を緩めなかった。

グラスを指先で軽く回しながら、低い声で続ける。


「……じゃあ、もうひとつ聞く。

お前、前の奥さんと別れた理由はなんだ?」


織が小さく息を呑む。

雪も視線を落とし、店内の空気がさらに静まる。

裕介は逃げなかった。

むしろ、逃げられないとわかっていた。


「……価値観の違いです。

僕が仕事に逃げて、向き合うべきことから目をそらしていた。

それが積み重なって、壊れました」


力は眉をひそめる。


「価値観の違い、ね。便利な言葉だ。

誰だってそう言えば済む。

だが──織と同じことを繰り返さない保証はあるのか?」


その言葉は鋭いが、怒鳴り声ではない。

むしろ、静かに刺さる。

裕介は一度だけ目を閉じ、ゆっくりと開いた。


「……保証なんて、できません。

でも、逃げないと決めました。

織と一緒にいる以上、同じことはしない。

しないように努力する。

それしか言えません」


力はすぐには返事をしなかった。

沈黙が、店の照明よりも重く落ちる。


「じゃあ聞く。織が倒れたらどうする?

仕事がうまくいかなくなったら?お前の歌詞が売れなくなったら?

金が尽きたら?全部抱える覚悟はあるのか?」

ひとつひとつの問いが、まるで拳のように裕介の胸に打ち込まれる。

織は耐えきれず、裕介の袖をそっとつまんだ。

止めたいわけではない。

ただ、そばにいるという合図のように。

裕介はその温度を感じながら、力をまっすぐ見た。


「……あります。

全部抱える覚悟があります。

逃げません。

織と生きると決めたので」


力はしばらく裕介を見つめていた。

その視線は、試すようであり、測るようであり、そしてどこか、父親としての祈りにも似ていた。

やがて、力はグラスを口に運び、ひと口だけ飲んだ。


「……まあ、言うだけなら誰でもできる。

だが─言わないやつよりは、まだマシだ」


雪がふっと笑い、織は小さく肩を落とした。

裕介は、胸の奥の緊張が少しだけほどけていくのを感じた。

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