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枯淡  作者: 水原伊織


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54.もう別の場所で生きている

継続契約が始まって数週間が経った頃だった。


会社から帰宅した裕介がPCを開くと、編集部から一通のメールが届いていた。

件名を見た瞬間、裕介は思わず息を呑んだ。


「長編企画・専任サポートのご相談」

今までの依頼とは明らかに違う。

胸の奥がざわつく。


メールを開くと、丁寧な文章が並んでいた。


いつも迅速なご対応ありがとうございます。


現在進行中の長編企画において、設定管理・キャラクター整合性チェック・資料整理を一括してお願いできる方を探しております。

上条先生からも高い評価をいただいており、ぜひ専任でお願いしたいと考えております。


裕介は、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。


「……専任?」


その言葉の重みが、ゆっくりと胸に落ちていく。

ちょうどその時、織が部屋に入ってきた。

裕介の表情を見て、すぐに気づいたようだった。


「来た?」

「……うん。なんか、すごいの来た」


織は裕介の肩越しに画面を覗き込み、ふっと微笑んだ。

「やっぱりね。編集さん、ずっと言ってたもん。“上条さんの作品の呼吸を一番理解してるのは、あの人だ”って」


裕介は思わず織を見た。


「俺が……?」

「そう。あなたのチェックは、私より私のキャラを理解してる時がある。だから、もっと深く関わってほしいって思ってた」


確かに、昔から織の作品は全部買って読んでいた。

織と生活を共にするようになっても、それは変わらなかった。


織は椅子に腰を下ろし、少しだけ真剣な表情になった。


「この長編、私にとって大事な作品なの。設定もキャラも複雑で、ひとりじゃ追いきれない。

裕介に支えてほしい」


その声は、頼みごとというより、どこか“信頼の告白”に近かった。

裕介は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


「……やるよ。織の作品に関われるなら、俺は嬉しい」

「ありがとう」


織はほっとしたように微笑んだ。

裕介はメールの返信ボタンを押し、迷いなく文字を打ち込んだ。


「ぜひ、担当させてください。よろしくお願いします」


送信ボタンを押した瞬間、胸の奥に静かな熱が広がった。

離婚して、自由になって、そして今、誰かの世界を支える仕事をしている。

織のそばで、織の作品に触れながら。

誰にも邪魔されず、集中して、自分の力を使える場所がある。


裕介は、ゆっくりと息を吸った。


「……悪くないな、こういう人生も」

織が隣で微笑んだ。


----


その日、織は出版社で打ち合わせをしていた。

長編企画の進行状況を確認し、資料の受け渡しを終えたところで、担当編集がふと口にした。


「最近、上条さんのサポートの方、すごいですね。

返信も早いし、チェックも丁寧で……あの方、何者なんですか?」


織は少しだけ笑った。


「昔、バンドで作詞してた人なの。文章に対する感覚が鋭いのは、そのせいかも」


編集者の目がわずかに光った。


「作詞……ですか?」

「うん。今はやってないけど、言葉の扱いは本当に上手いよ」


その一言が、静かに編集部の空気を変えた。


「……実は、タイアップで作詞家を探していて。もしよければ、一度だけ仮歌詞を書いてもらえませんか?」


織は迷わず頷いた。


「聞いてみる。きっと、やってくれると思う」


----


夜。


織からその話を聞いた裕介は、驚きで言葉を失った。


「俺が…作詞?」


「うん。あなたの言葉、私は好きだよ。昔みたいに、一度だけ書いてみて」


裕介はしばらく黙っていたが、やがて静かにPCを開いた。


何年も触れていなかったはずの感覚が戻ってきた。

離婚。

喪失。

再生。

織と過ごす静かな日々。

言葉が、勝手に溢れ出した。


…あの場所で、出会ったね。今ではもう、何もできないけれど…


30分後、裕介はペンを置いた。


「……書けた」


織は画面を読み始めた瞬間、息を呑んだ。


「……裕介、これ……」


その声は震えていた。


----


翌日、織はその歌詞を編集部に送った。

数時間後、電話が鳴った。


「上条さん……これ、本当に初稿ですか?」


編集者の声は興奮を隠せていなかった。


「はい。ほとんど直してません」

「すごい……。言葉の密度が違う。ドラマの世界観にも合ってます。ぜひ、このまま採用したい」


織は静かに微笑んだ。


「本人にも伝えておきます」


電話を切ると、織は裕介の部屋へ向かった。


「……採用だって」


裕介は目を見開いた。

「え……?」

「あなたの言葉が、誰かの作品になるよ」


裕介は、しばらく何も言えなかった。


----


数週間後。

若手アーティストの新曲として正式に採用され、ドラマの主題歌にも決まった。

レコーディングの仮音源が届き、織と裕介は並んでソファに座り、イヤホンを片方ずつ分け合って聴いた。


歌い出しの瞬間、裕介の胸に熱いものが込み上げた。


「……俺の言葉だ」

「うん。ちゃんと、歌になってる」


織は優しく微笑んだ。


----


ヒットから一ヶ月後。

出版社から正式に連絡が来た。


「作詞家として契約したい」


「年間数曲をお願いしたい」


「長編企画の設定管理も継続で」


収入は本業を超えた。

印税も入る。

生活は安定する。


----


裕介は、織といつものように交じり合っていた。


そんな最中に、静かに決めた。


「……俺、会社辞めようと思う」


織は驚かなかった。

裕介に組み敷かれながらも、ただ、ゆっくりとうなずいた。


「…う…ん。裕介は…もう…別の場所で生きてる…」


吐息まじりに答える織は、美しかった。

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