53.いなくなって知る背中の重み
継続契約の話が正式に届いた。
月に十五万円前後──副業としては破格だった。
メールには、担当編集の丁寧な言葉が並んでいた。
「返信の速さと正確さが助かっています。
ぜひ、今後はまとまった仕事をお願いしたいと思っています」
裕介は、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……すごいじゃん」
背後から織の声がした。
振り返ると、織が静かに微笑んでいた。
「裕介、やっぱり向いてるよ。こういうコツコツした仕事、あなたの性格に合ってる」
「……二つ返事で引き受けちゃった」
「いいと思う。あなたがやりたいなら、それが一番」
織の言葉は、いつも通り淡々としているのに、どこか誇らしげだった。
裕介は、ゆっくりと息を吐いた。
織のそばで、織に関わる仕事ができる。
それが素直に嬉しかった。
そして何より──
何かに集中していても、誰からも何も言われない。
「買い物、あるんだけど」
「回覧板回したいんだけど」
「精米しなきゃ」
そんな声が飛んでくることもない。
自分の時間を、自分の判断で使える。
その自由が、こんなにも心地よいものだとは思わなかった。
PCの前で黙々と作業を進めていると、ふと、昔の自分を思い出した。
——俺、こういうの、嫌いじゃなかったんだよな。
学生時代、誰に言われるでもなく、黙々とノートに歌詞を書いていた。
曲も作っていた。
集中している時間が好きだった。
誰にも邪魔されず、ただ作業に没頭する感覚。
結婚してから、その時間はどこかへ消えてしまった。
家事、育児、雑務。
「今やって」「あとでいいから」「ちょっと手伝って」
そんな声に追われるうちに、自分が何を好きだったのかすら忘れていた。
今、ようやく思い出している。
自分がどういう人間だったのか。
何が得意で、何が心地よかったのか。
織の部屋の静けさの中で、キーボードを叩く音だけが響いていた。
裕介は、画面に向かいながら小さく笑った。
「……悪くないな、こういう生活も」
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涼が実家に戻り、働き始めて、一週間が過ぎた。
朝は六時に起き、弁当を詰め、駅へ向かう。
帰ってくるのは夜の八時を回ることも多かった。
最初の三日は、まだ余裕があった。
だが、四日目あたりから、涼の顔に疲れが滲み始めた。
金曜日の夜、玄関の扉が開く音がして、彩が顔を上げると、
涼は靴を脱ぎながら、ため息をひとつ落とした。
「……疲れた」
「おかえり。ご飯、温めるね」
彩がそう言うと、涼はうなずきながらリビングに入った。
美がソファから顔を出す。
「兄ちゃん、なんか老けた?」
「うるせぇよ……」
涼は苦笑しながらも、肩を回していた。
その仕草が、妙に大人びて見えた。
食卓につくと、涼は箸を動かしながらぽつりと言った。
「……働くって、こんなに疲れるんだな」
彩は少し驚いたように息を呑んだ。
「そうね。慣れるまでは大変よ」
「いや……そうじゃなくてさ」
涼は箸を置き、天井を見上げた。
「父さん、これ……ずっとやってたんだよな」
彩の手が止まった。
美も、テレビの音量を下げた。
「朝早く起きて、仕事行って、帰ってきて……
それで家のこともやって……
俺、今一週間でこんなにしんどいのに、
父さん、二十年以上やってたんだよな」
その声には、素直な驚きと、少しの悔しさが混じっていた。
「俺、父さんのこと……なんか、もっとちゃんと見ておけばよかったな」
彩は胸が締めつけられた。
美も、黙って兄の横顔を見つめていた。
涼は続けた。
「仕事して、家のことして……
あれ、普通じゃねぇよ。
俺、今やっと分かった。
父さん、すげぇよ」
その言葉は、誰に向けたわけでもなく、ただ静かに部屋に落ちた。
彩は、そっと目を伏せた。
裕介が家を出てから、誰も言わなかった言葉だった。
美がぽつりと呟いた。
「……パパ、すごかったんだね」
涼はうなずいた。
「うん。俺、父さんのこと……ちょっと舐めてたわ」
その瞬間、家の空気が少しだけ変わった。
裕介がいなくなってから沈んでいた空気が、ほんの少しだけ、温かさを取り戻した。
涼は深く息を吐き、立ち上がった。
「風呂入ってくる。……明日も仕事だし」
その背中は、以前よりもずっと大人に見えた。
彩はその姿を見送りながら、胸の奥で静かに思った。
——裕介、あなたの存在は、いなくなって初めて分かるものなのね。




