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枯淡  作者: 水原伊織


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53/66

53.いなくなって知る背中の重み

継続契約の話が正式に届いた。

月に十五万円前後──副業としては破格だった。

メールには、担当編集の丁寧な言葉が並んでいた。


「返信の速さと正確さが助かっています。

ぜひ、今後はまとまった仕事をお願いしたいと思っています」


裕介は、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。

胸の奥がじんわりと熱くなる。


「……すごいじゃん」


背後から織の声がした。

振り返ると、織が静かに微笑んでいた。


「裕介、やっぱり向いてるよ。こういうコツコツした仕事、あなたの性格に合ってる」

「……二つ返事で引き受けちゃった」

「いいと思う。あなたがやりたいなら、それが一番」


織の言葉は、いつも通り淡々としているのに、どこか誇らしげだった。

裕介は、ゆっくりと息を吐いた。

織のそばで、織に関わる仕事ができる。

それが素直に嬉しかった。

そして何より──

何かに集中していても、誰からも何も言われない。


「買い物、あるんだけど」


「回覧板回したいんだけど」


「精米しなきゃ」


そんな声が飛んでくることもない。


自分の時間を、自分の判断で使える。


その自由が、こんなにも心地よいものだとは思わなかった。

PCの前で黙々と作業を進めていると、ふと、昔の自分を思い出した。


——俺、こういうの、嫌いじゃなかったんだよな。


学生時代、誰に言われるでもなく、黙々とノートに歌詞を書いていた。

曲も作っていた。

集中している時間が好きだった。

誰にも邪魔されず、ただ作業に没頭する感覚。

結婚してから、その時間はどこかへ消えてしまった。


家事、育児、雑務。

「今やって」「あとでいいから」「ちょっと手伝って」


そんな声に追われるうちに、自分が何を好きだったのかすら忘れていた。


今、ようやく思い出している。


自分がどういう人間だったのか。


何が得意で、何が心地よかったのか。


織の部屋の静けさの中で、キーボードを叩く音だけが響いていた。


裕介は、画面に向かいながら小さく笑った。

「……悪くないな、こういう生活も」


----


涼が実家に戻り、働き始めて、一週間が過ぎた。

朝は六時に起き、弁当を詰め、駅へ向かう。

帰ってくるのは夜の八時を回ることも多かった。


最初の三日は、まだ余裕があった。

だが、四日目あたりから、涼の顔に疲れが滲み始めた。


金曜日の夜、玄関の扉が開く音がして、彩が顔を上げると、

涼は靴を脱ぎながら、ため息をひとつ落とした。


「……疲れた」


「おかえり。ご飯、温めるね」


彩がそう言うと、涼はうなずきながらリビングに入った。

美がソファから顔を出す。


「兄ちゃん、なんか老けた?」

「うるせぇよ……」


涼は苦笑しながらも、肩を回していた。

その仕草が、妙に大人びて見えた。

食卓につくと、涼は箸を動かしながらぽつりと言った。


「……働くって、こんなに疲れるんだな」


彩は少し驚いたように息を呑んだ。


「そうね。慣れるまでは大変よ」

「いや……そうじゃなくてさ」


涼は箸を置き、天井を見上げた。


「父さん、これ……ずっとやってたんだよな」


彩の手が止まった。

美も、テレビの音量を下げた。


「朝早く起きて、仕事行って、帰ってきて……

それで家のこともやって……

俺、今一週間でこんなにしんどいのに、

父さん、二十年以上やってたんだよな」


その声には、素直な驚きと、少しの悔しさが混じっていた。


「俺、父さんのこと……なんか、もっとちゃんと見ておけばよかったな」


彩は胸が締めつけられた。

美も、黙って兄の横顔を見つめていた。

涼は続けた。


「仕事して、家のことして……

あれ、普通じゃねぇよ。

俺、今やっと分かった。

父さん、すげぇよ」


その言葉は、誰に向けたわけでもなく、ただ静かに部屋に落ちた。


彩は、そっと目を伏せた。

裕介が家を出てから、誰も言わなかった言葉だった。


美がぽつりと呟いた。


「……パパ、すごかったんだね」

涼はうなずいた。


「うん。俺、父さんのこと……ちょっと舐めてたわ」


その瞬間、家の空気が少しだけ変わった。

裕介がいなくなってから沈んでいた空気が、ほんの少しだけ、温かさを取り戻した。


涼は深く息を吐き、立ち上がった。

「風呂入ってくる。……明日も仕事だし」


その背中は、以前よりもずっと大人に見えた。

彩はその姿を見送りながら、胸の奥で静かに思った。


——裕介、あなたの存在は、いなくなって初めて分かるものなのね。

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