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枯淡  作者: 水原伊織


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52.否定されない仕事

出版社からの依頼メールを送り終えた夜、裕介は椅子にもたれ、深く息を吐いた。


集中しすぎて、肩が少し痛い。

だが、その痛みすら心地よかった。


「おつかれ」


背後から織の声がした。

振り返ると、織が湯気の立つマグカップを二つ持って立っていた。


「ありがとう……ちょっと、夢中になってた」

「見てたよ」


織は裕介の隣に腰を下ろし、画面に残る原稿データをちらりと見た。

整えられた文章、丁寧に付けられたコメント、返信済みのメールの数々。

そのどれもが、裕介の“真面目さ”をそのまま映していた。


「やっぱり裕介、向いてるよ。こういう仕事」

「……そうかな」


「うん。もともと集中力あるし、作業を丁寧に積み重ねるのが得意でしょ。きっと今まで、家庭の雑務でそがれてただけだよ」


その言葉に、裕介は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


家庭の雑務──掃除、片付け、買い物、子どもの送り迎え。


彩は完璧主義で、裕介のやり方はいつもどこかで否定されていた。

気づけば、自分の“集中力”を使う場所は、どこにもなくなっていた。


「それにね」


織はマグカップを置き、スマホを取り出した。


「出版社の担当さんから、私にもお礼のメールが来てたよ」


「えっ……俺のことで?」


「うん。“返信が早くて助かります”って。他の人の三倍くらいのスピードで返ってくるって、驚いてた」


裕介は思わず苦笑した。


「AI使ってるからだよ。誤字脱字も、原稿整理も、リサーチも……AIに投げたら、すぐ返ってくるし」


「それでいいの。今はみんな使ってるよ。大事なのは、最後にちゃんと自分の目で確認してるってこと」


織はそう言って、裕介の手元の原稿を指先で軽く叩いた。


「AIがどれだけ優秀でも、“この作品にとって何が正しいか”を判断するのは人間だから。あなたはそこをちゃんとやってる」


裕介は言葉を失った。


褒められることに慣れていない。

まして、自分の“仕事ぶり”を肯定されるなんて、いつ以来だろう。


「……なんか、嬉しいな」


「嬉しがっていいよ。だって、ほんとに助かってるんだから」


織は微笑んだ。

その笑みは、優しさだけでなく、どこか誇らしさのようなものを含んでいた。


裕介は、胸の奥が静かに満たされていくのを感じた。


離婚して、自由になって、そして今、自分の力で立ち始めている。

そのことを、誰よりも近くで見てくれている人がいる。

その事実が、何よりも心強かった。


----


副業が思ったよりも好調だった。


会社から帰ってくると、裕介はまっすぐ自分の部屋に向かい、新しく買ったノートPCの前に座るのが日課になっていた。


メールソフトを開けば、出版社からの依頼がいくつも届いている。


校正、原稿整理、電子書籍のチェック、リサーチ業務──。


どれも在宅で完結する仕事だ。

最初は戸惑いながら進めていた作業も、慣れてくると驚くほどスムーズにこなせるようになった。


生成AIを補助的に使うことで、作業の下処理は一瞬で終わる。

あとは自分の目で確認し、判断するだけだ。


「……こんなに早く終わるものなのか」


そう呟きながら、裕介は次のメールを開く。


返信のスピードは、担当者からも驚かれるほどだった。


「他の外注さんの三倍くらいの速さで返ってきます」

「とても助かっています」


そんな言葉が、織のところにまで届いていた。


「裕介、ほんとに向いてるよ。こういう仕事」


織は純粋に喜んでいた。

その笑顔を見るたびに、裕介の胸の奥が温かくなる。


土日はサラリーマンである裕介の事をわかっているせいか、特に依頼が多く、裕介は朝からPCに向かって作業を進めた。


とはいえ、何時間もかかるわけではない。


AIの補助もあり、集中して取り組めば、午前中にはほとんどの仕事が片付いてしまう。


それでも軽く百件以上はこなしていて、月の報酬は十万円をゆうに超えていた。


「よし……終わった」


椅子にもたれ、軽く伸びをすると、

織が部屋の入り口から顔を覗かせた。


「終わった?じゃあ、買い出し行こっか」

「うん。掃除もあとでやるよ」

「ありがと。助かる」


裕介は、動くことが苦ではなかった。

もともと貧乏性なのだろう。


身体を動かしているほうが落ち着くし、織の生活が整っていくのを見るのは、どこか嬉しかった。


織と、買い出しを終え、掃除を済ませ、夜になってようやくソファに腰を下ろすと、織が隣に座り、そっと肩にもたれかかってきた。


「今日も頑張ったね」


その声は、疲れた身体をゆっくりと溶かしていくようだった。

裕介は目を閉じ、静かに息を吐いた。

離婚して、自由になって、そして今、誰かに必要とされながら働いている。


その実感が、心地よかった。

織の温もりが、その日の疲れをすべて吸い取っていくようだった。

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