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枯淡  作者: 水原伊織


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51/65

51.それぞれの再出発

金曜日の午後、織に連れられて出版社へ向かった。

受付で名前を告げると、すぐに会議室へ案内された。

上条織の名前が出た瞬間、社員の態度がわずかに変わる。


緊張と期待が入り混じった空気が、廊下の奥からゆっくりと流れてきた。


上条織の前作は累計二十二万部を突破していた。

文芸作品としては異例のヒットで、出版社の中でも“特別扱い”される存在だ。


そんな作家が「紹介したい人がいる」と言えば、断る理由などどこにもない。


会議室に入ると、編集者たちがすでに待っていた。

名刺交換が終わると、すぐに質問が飛んでくる。


「織さんのお知り合いなんですか?」


「どういうご関係で?」


「以前から出版に関わっていた方ですか?」


柔らかい口調ではあるが、興味が隠しきれていない。

“上条織の隣にいる男”というだけで、彼らの好奇心は刺激されるのだ。


裕介は答えに詰まり、視線を落とした。

その瞬間、織が軽く笑って言った。


「友達。昔からのね」


その一言で、空気がすっと落ち着いた。


編集者たちは「ああ、そうなんですね」と頷き、それ以上は踏み込まない。

織は、余計な詮索をさせたくなかったのだ。


裕介の過去も、離婚も、二人の関係も。

出版社に知られる必要はどこにもない。

編集者が資料を広げ、在宅でできる仕事の説明を始めた。


「まずは校正です。誤字脱字や表記ゆれをチェックする作業ですね」

「こちらは原稿整理。作家さんから届くデータを整える仕事です」

「電子書籍のチェックもあります。レイアウト崩れやリンクの確認など」

「リサーチ業務もあります。作品に必要な情報を調べてまとめる仕事です」


どれもオンラインで完結し、月十万円程度なら十分に可能な仕事だった。


裕介は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

離婚してからずっと、自分にはもう何もできないのではないかと、

どこかで思い込んでいた。

だが、目の前には、思っていた以上に多くの道が広がっていた。


「織さんのご紹介ですし、まずは簡単な案件からお願いできればと」


編集者がそう言うと、織は静かに頷いた。


「裕介、できそう?」

その声は、出版社の誰にも聞こえないほど小さかった。

だが、裕介にははっきりと届いた。


「……やってみたいです」


その言葉に、織はほんの少しだけ微笑んだ。

出版社の誰も気づかない、小さな笑みだった。

裕介は、ゆっくりと息を吸った。

新しい生活が、静かに動き始めていた。


----


涼が帰ってきたのは、金曜日の夕方だった。

玄関の扉が開く音がして、彩は顔を上げた。

そこに立っていたのは、少し痩せたように見える長男だった。


「……涼?」

「ただいま」


その声は、どこか決意を含んでいた。

彩が驚いて言葉を探していると、涼は靴を脱ぎながら、まっすぐに母を見た。


「俺、この家に戻るよ。……俺が、この家を支える」


その一言に、彩は息を呑んだ。

胸の奥がじんわりと熱くなる。

涼は空気は読めないし、昔から不器用で、言葉より行動で示すタイプだった。

だが、こんなにも真っ直ぐに言われたのは初めてだった。


「涼……」


声が震えた。

彩は思わず口元を押さえた。

廊下の奥から、美が顔を出した。

兄の姿を見た瞬間、目を丸くする。


「……なんで帰ってきたの?」


涼は少し照れたように頭をかいた。


「なんでって……家だろ、ここ」


美はしばらく黙って涼を見つめていた。

あれほど兄を疎ましく思っていたはずなのに、

その表情には、わずかながら安堵が混じっていた。


「……ふーん。まあ、別にいいけど」


そっけなく言いながらも、声が少しだけ柔らかかった。

彩は、そんな二人を見て胸がいっぱいになった。


離婚してから、家の空気はどこか沈んでいた。

美は強がっていたが、心の奥では不安を抱えていた。

彩自身も、生活の現実に押しつぶされそうだった。

その中で、涼の帰宅は、小さな光のように思えた。


「ありがとう、涼……本当に……」


彩がそう言うと、涼は照れくさそうに視線をそらした。

「別に。家族なんだから、当たり前だろ」


その言葉に、美が小さく笑った。

兄を見直したような、そんな笑みだった。


家の中に、久しぶりに温かい空気が流れた。

涼が帰ってきたことで、この家はようやく“再生”の入口に立ったのかもしれなかった。


----


会社から帰ってくると、裕介はまっすぐ自分の部屋に向かった。

新しく購入したばかりのノートPCが、机の上で待っている。


電源を入れると、薄いファンの音が静かに回り始めた。

メールソフトを開くと、出版社からの依頼がいくつか届いていた。


校正、原稿整理、電子書籍のチェック、リサーチ業務。

どれも在宅でできる仕事だ。


裕介は椅子に腰を下ろし、ひとつずつメールを開いていった。

最初は緊張していたが、慣れてくると、作業は思っていたよりもずっと単純だった。


誤字脱字のチェック。


表記ゆれの統一。


Wordデータの整形。


電子書籍のリンク確認。


作品の舞台となる地域の情報収集。


どれも、やってみれば淡々と進む作業だった。


裕介は、ふと手を止めた。


——こんなに簡単でいいのか?


そう思ったのは、生成AIを使ってみたからだ。

試しに、誤字脱字のチェックをAIにかけてみると、人間が見落としそうな細かいミスまで拾ってくれる。

原稿整理も、フォーマットの統一も、AIが驚くほど正確にやってくれた。


リサーチ業務に至っては、

「この作品の舞台となる街の特徴をまとめてください」

と入力するだけで、必要な情報が一瞬で揃った。


裕介は、画面を見つめながら小さく息を吐いた。


——こんなに簡単で、本当にいいのか?


だが、出版社からは何も言われなかった。

提出した作業はすべて「問題ありません」「助かります」と返ってくる。

むしろ、返信は早く、丁寧で、次の依頼がすぐに届く。


「……まあ、いいか」


裕介は小さく呟き、次の原稿を開いた。


AIが下処理をしてくれるとはいえ、最終的に目を通すのは自分だ。


誤った判断をしないよう、慎重に読み進める。

気づけば、外はすっかり暗くなっていた。

時計を見ると、もう二十二時を回っている。


「……こんなに集中したの、久しぶりだな」


会社の仕事では味わえなかった感覚だった。

誰かに必要とされている。

自分の作業が、作品の一部になっていく。

そんな実感が、胸の奥に静かに広がっていく。

メールを送り終えると、裕介は椅子にもたれ、深く息を吐いた。


離婚して、自由になって、そしてようやく、自分の足で立ち始めている。

そんな実感が、夜の静けさの中でじんわりと身体に染み込んでいった。

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