50.頑張るしかないんだ
翌朝、裕介は早く目が覚めた。
まだ外は薄暗く、織は静かな寝息を立てている。
昨夜の夢の残滓が胸の奥に張りついたままで、息を吸うたびに重さが動いた。
——このままではいけない。
その思いだけが、はっきりと残っていた。
裕介はそっとベッドを抜け出し、キッチンで湯を沸かした。
湯気が立ち上るのを見つめながら、自分の生活が今どれほど織に依存しているかを思い返す。
家賃も、食費も、光熱費も。
離婚してからの生活費は、ほとんど織に頼っていた。
美への養育費、住宅ローンの引き落とし。
それだけでも月の給料の手取りの半分が無くなる。
そこから、車の維持費、保険代などを引くと、ほとんど残らないのだ。
「別にいいよ」と織は言ってくれる。
だが、それに甘えている自分が、昨夜の夢の中で“首輪をつけられた自分”と重なった。
自由になったはずなのに、自由の形が歪んでいく。
責任という名の、鎖にはつながれたままだ。
織が起きてきたのは、ちょうどコーヒーが淹れ終わった頃だった。
「……早いね、今日は」
寝起きの声は少し掠れていて、裕介は一瞬だけ迷った。
だが、言わなければ何も変わらない。
「織……相談があるんだ」
織はマグカップを受け取りながら、少しだけ首を傾げた。
「どうしたの?」
裕介は深く息を吸った。
「俺…副業を始めたい。金銭的に、今のままじゃ…織に頼りすぎてる。ちゃんと、自分の生活を立て直したいんだ」
織は驚いたように目を瞬いた。
だが、すぐに柔らかく笑った。
「いいと思うよ。裕介がそうしたいなら、応援する」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなった。
織は続けた。
「出版社に聞いてみる。あなたの年齢でもできる仕事、探せると思う。
月十万くらいなら……いくらでもあるよ」
「……本当に?」
「うん。校正、原稿整理、データ入力、雑務…出版社って、意外と人手が足りないの。
あなた、真面目だし、丁寧だし。向いてると思う」
織はそう言って、コーヒーをひと口飲んだ。
その横顔は、昨夜の夢の中の“支配者”とはまったく違う。
優しくて、現実的で、ただ寄り添ってくれる人だった。
裕介は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「ありがとう、織。……本当に、ありがとう」
織は笑った。
「いいの。あなたが“自分の足で立ちたい”って思ったなら、それが一番だから」
その言葉に、裕介は静かにうなずいた。
昨夜の夢が見せた“依存の未来”は、ただの恐れだ。
だが、その恐れがあったからこそ、今こうして前に進もうとしている。
自由は、誰かに与えられるものではない。
自分で掴むものだ。
裕介は、ようやくその意味を理解し始めていた。
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離婚届を提出した翌日、彩は家計簿アプリを開いたまま、しばらく動けなかった。
数字が並んでいるだけなのに、胸の奥がじわりと冷えていく。
裕介に、どれだけ依存していたのか。
離婚して初めて、理解した。
住宅ローンは裕介が払ってくれる。
養育費も、毎月三万円入る。
それだけで、彩は「なんとかなる」と思っていた。
だが、現実は違った。
光熱費。
車の維持費。
保険代。
美と彩の携帯料金。
食費。
美への小遣い。
授業料。
学校に関わる教材費。
ひとつひとつは大した額ではない。
だが、積み重なると、彩の収入では到底まかなえない金額になっていた。
「……こんなに、かかってたんだ」
声に出すと、余計に現実味が増した。
彩はスマホを置き、両手で顔を覆った。
今まで、裕介が払ってくれていた。
何も言わず、文句も言わず、ただ淡々と。
その当たり前が、どれほど大きな支えだったのか。
離婚して初めて、その重さが分かった。
「私……何も、分かってなかったんだな」
呆然とつぶやくと、胸の奥がじんわりと痛んだ。
裕介に頼りきっていた自分。
家計の細かい部分を、どこかで“夫の役目”だと決めつけていた自分。
美のために、家のために、働いてきたつもりだった。
だが、実際には、裕介の収入に守られていただけだった。
彩はゆっくりと立ち上がり、キッチンの椅子に腰を下ろした。
冷蔵庫の中には、昨日の残り物が少しだけ。
買い物に行かなければならない。
だが、財布の中身を思い出すと、足が動かなかった。
「……フルタイムで働かないと、無理だ」
その言葉が、静かに部屋に落ちた。
現実を受け入れるしかなかった。
美のために。
自分のために。
そして、もう誰にも依存しないために。
彩は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
胸の奥の空洞はまだ埋まらない。
だが、その空洞の中に、ようやく小さな決意が芽生え始めていた。




