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枯淡  作者: 水原伊織


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50/63

50.頑張るしかないんだ

翌朝、裕介は早く目が覚めた。

まだ外は薄暗く、織は静かな寝息を立てている。

昨夜の夢の残滓が胸の奥に張りついたままで、息を吸うたびに重さが動いた。


——このままではいけない。


その思いだけが、はっきりと残っていた。

裕介はそっとベッドを抜け出し、キッチンで湯を沸かした。

湯気が立ち上るのを見つめながら、自分の生活が今どれほど織に依存しているかを思い返す。


家賃も、食費も、光熱費も。

離婚してからの生活費は、ほとんど織に頼っていた。


美への養育費、住宅ローンの引き落とし。

それだけでも月の給料の手取りの半分が無くなる。

そこから、車の維持費、保険代などを引くと、ほとんど残らないのだ。


「別にいいよ」と織は言ってくれる。

だが、それに甘えている自分が、昨夜の夢の中で“首輪をつけられた自分”と重なった。

自由になったはずなのに、自由の形が歪んでいく。

責任という名の、鎖にはつながれたままだ。


織が起きてきたのは、ちょうどコーヒーが淹れ終わった頃だった。


「……早いね、今日は」


寝起きの声は少し掠れていて、裕介は一瞬だけ迷った。

だが、言わなければ何も変わらない。


「織……相談があるんだ」


織はマグカップを受け取りながら、少しだけ首を傾げた。


「どうしたの?」


裕介は深く息を吸った。


「俺…副業を始めたい。金銭的に、今のままじゃ…織に頼りすぎてる。ちゃんと、自分の生活を立て直したいんだ」


織は驚いたように目を瞬いた。

だが、すぐに柔らかく笑った。


「いいと思うよ。裕介がそうしたいなら、応援する」


その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなった。


織は続けた。

「出版社に聞いてみる。あなたの年齢でもできる仕事、探せると思う。

月十万くらいなら……いくらでもあるよ」

「……本当に?」

「うん。校正、原稿整理、データ入力、雑務…出版社って、意外と人手が足りないの。

あなた、真面目だし、丁寧だし。向いてると思う」


織はそう言って、コーヒーをひと口飲んだ。

その横顔は、昨夜の夢の中の“支配者”とはまったく違う。

優しくて、現実的で、ただ寄り添ってくれる人だった。

裕介は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


「ありがとう、織。……本当に、ありがとう」


織は笑った。

「いいの。あなたが“自分の足で立ちたい”って思ったなら、それが一番だから」


その言葉に、裕介は静かにうなずいた。

昨夜の夢が見せた“依存の未来”は、ただの恐れだ。

だが、その恐れがあったからこそ、今こうして前に進もうとしている。

自由は、誰かに与えられるものではない。

自分で掴むものだ。

裕介は、ようやくその意味を理解し始めていた。


----

離婚届を提出した翌日、彩は家計簿アプリを開いたまま、しばらく動けなかった。

数字が並んでいるだけなのに、胸の奥がじわりと冷えていく。


裕介に、どれだけ依存していたのか。


離婚して初めて、理解した。


住宅ローンは裕介が払ってくれる。

養育費も、毎月三万円入る。


それだけで、彩は「なんとかなる」と思っていた。


だが、現実は違った。

光熱費。

車の維持費。

保険代。

美と彩の携帯料金。

食費。

美への小遣い。

授業料。

学校に関わる教材費。

ひとつひとつは大した額ではない。


だが、積み重なると、彩の収入では到底まかなえない金額になっていた。


「……こんなに、かかってたんだ」


声に出すと、余計に現実味が増した。

彩はスマホを置き、両手で顔を覆った。

今まで、裕介が払ってくれていた。


何も言わず、文句も言わず、ただ淡々と。

その当たり前が、どれほど大きな支えだったのか。

離婚して初めて、その重さが分かった。


「私……何も、分かってなかったんだな」


呆然とつぶやくと、胸の奥がじんわりと痛んだ。


裕介に頼りきっていた自分。

家計の細かい部分を、どこかで“夫の役目”だと決めつけていた自分。


美のために、家のために、働いてきたつもりだった。

だが、実際には、裕介の収入に守られていただけだった。


彩はゆっくりと立ち上がり、キッチンの椅子に腰を下ろした。

冷蔵庫の中には、昨日の残り物が少しだけ。

買い物に行かなければならない。

だが、財布の中身を思い出すと、足が動かなかった。


「……フルタイムで働かないと、無理だ」


その言葉が、静かに部屋に落ちた。


現実を受け入れるしかなかった。


美のために。

自分のために。

そして、もう誰にも依存しないために。


彩は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

胸の奥の空洞はまだ埋まらない。

だが、その空洞の中に、ようやく小さな決意が芽生え始めていた。

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