48.ひとりじゃないのか
月曜日の午後、会議資料をまとめていたときだった。
スマホが机の上で小さく震えた。
何気なく画面をのぞき込んだ裕介の手が、そのまま止まった。
〈提出しました〉
彩からのLINEは、それだけだった。
予測はしていた。
覚悟もしていた。
もう決まっていたことだ。
それでも、文字として突きつけられると、胸の奥に何か重いものが落ちてきた。
落ちてきたのに、なぜか解放される気配はなかった。
むしろ、何十年分の重みが、急に形を持ってのしかかってくるようだった。
資料の上に置いた手が、わずかに震えていた。
誰にも気づかれないように、そっと拳を握る。
「……そうか」
声にならない声が喉の奥で転がった。
言葉にしてしまえば、何かが決定的に終わってしまう気がして、口を開けなかった。
パソコンの画面は、さっきまでと同じ資料を映している。
だが、もう文字が頭に入ってこない。
周囲の同僚の声も、キーボードの音も、遠くに霞んでいく。
離婚届は提出された。
彩の手で。
自分が署名した紙が、役所の窓口で受理されたという事実だけが、静かに胸の奥に沈んでいく。
戻れない。
そう思った瞬間、ようやく息が漏れた。
裕介はスマホを伏せ、深く椅子にもたれた。
背中に冷たい汗がにじんでいた。
裕介は時間休暇の申請を出し、無言で会社を出た。
外の空気は冷たく、胸の奥の空洞にそのまま入り込んでくるようだった。
車に乗り込むと、行き先も決めずに走り出した。
信号も、景色も、ほとんど記憶に残らない。
ただ、前に進むしかなかった。
気がつくと、海岸沿いの道に出ていた。
冬の海は灰色で、空との境目が曖昧だった。
近くの駐車場に車を停め、ゆっくりと海へ向かう。
すでに辺りは薄暗く、人影はなかった。
波の音だけが、一定のリズムで寄せては返す。
裕介は、海の方へ歩き、立ち止まった。
冷たい風が頬を刺す。
胸の奥に溜まっていたものが、ようやく形を持ち始めた。
そして、ありったけの力を込めて叫んだ。
声は風にちぎられ、波に飲まれ、どこにも届かなかった。
それでも、叫ばずにはいられなかった。
自分の声が消えていくのを聞きながら、裕介はゆっくりと目を閉じた。
何も解決しないまま、ただ海の音だけが、静かに耳に残った。
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織の部屋に帰ってきたのは、午後八時を過ぎていた。
いつもより、だいぶ遅い。
玄関の扉を閉める音が、やけに軽く響いた。
「おかえり」
織は、机に向かったままそう言った。
キーボードを打つ指は止まらない。
その変わらなさが、裕介には妙に心地よかった。
「……何も聞かないの?」
靴を脱ぎながら、裕介は思わず口にしていた。
「……何を?」
織は画面から目を離さずに答える。
その声は、責めるでもなく、探るでもなく、ただいつもの織の声だった。
「いや、いつもより、その……遅いから。帰ってくる時間が」
織は小さく笑った。
肩の力が抜けるような、柔らかい笑い方だった。
「ふふ、門限があるの?」
その言葉に、裕介は胸の奥がふっと揺れた。
ああ、そうか──と、遅れて気づく。
もう、自分には門限がない。
帰るべき家も、帰る時間を気にする必要もない。
誰の夫でもなくなった。
自由になったのだ、と。
「……裕介、どうしたの?」
織がようやく手を止め、椅子を回してこちらを見た。
その瞬間、裕介は自分の頬を伝うものに気づいた。
涙だった。
止めようとしても止まらなかった。
嬉しいのか、悲しいのか、自分でも分からなかった。
ただ、長い間閉じ込めていた何かが、ようやく外に出たような感覚だけがあった。
「自由になったんだなって……思ったら……」
言葉は途中で途切れた。
声にならない息だけが漏れた。
織は立ち上がり、そっと裕介の前に立った。
抱きしめるでもなく、慰めるでもなく、ただ近くにいるという距離で。
「……そっか」
その一言が、裕介の胸に静かに落ちた。
肯定でも否定でもない。
ただ、受け止めるだけの声。
裕介は、涙を拭うこともできずに立ち尽くした。
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裕介の涙が落ち着くまで、織は何も言わなかった。
ただ、そばに立ち、呼吸の乱れが静まるのを待っていた。
やがて裕介が袖で涙を拭うと、織は少しだけ視線をそらし、机の上の紙束に手を伸ばした。
「……ねえ、これ」
織は数枚のプリントを持ち上げ、裕介の前に差し出した。
白い紙に、細かい文字がびっしりと並んでいる。
「原稿?」
「うん。今日、書いてたやつ」
裕介は受け取った紙を見つめた。
タイトルはなく、冒頭からいきなり情景が始まっている。
読んだ瞬間、胸の奥がざわついた。
──ホテルの部屋。
──触れた指先の温度。
──息が混ざる距離。
──あの日の、二人だけの夜。
「……これ、俺たちの……?」
裕介が問いかけると、織は小さく笑った。
照れでも挑発でもない、どこか優しい笑みだった。
「うん。あの日のこと、書いてみたの」
裕介は紙を持つ手に力が入った。
胸の奥が熱くなる。
涙とは違う、別の熱さだった。
裕介は視線を落とし、原稿の文字を追った。
そこには、あの日の自分がいた。
迷いも、罪悪感も、まだ形になっていなかった頃の自分が。
「……織」
名前を呼ぶと、織はゆっくりと顔を上げた。
その目は、まっすぐだった。
「励ましてるのよ、これでも」
「……ああ」
裕介は紙を胸に抱え、深く息を吸った。
海で叫んでも消えなかった重さが、少しだけ形を変えていくのを感じた。
織はそっと言った。
「大丈夫。裕介は、ひとりじゃないよ」
その言葉が、静かに部屋の空気に溶けていった。




