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枯淡  作者: 水原伊織


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47.あとは彩が決める

どちらにしても、裕介は署名をした。

この離婚届を出すにしても、出さないにしても。


ペン先が紙から離れた瞬間、わずかな音がした。

それは、二十数年の結婚生活にひとつの区切りをつけるにはあまりにも軽い音で、彩は思わず息を止めた。


裕介はペンを置いたまま、しばらく動かなかった。

書類を見ているのか、見ていないのか分からない。

ただ、肩だけがわずかに上下していた。


彩は、テーブルの端に置かれた離婚届を見つめた。

署名欄に並んだ二人の名前が、妙に遠く感じられた。

紙一枚で終わるはずのものが、どうしてこんなにも重いのだろう。


「……ありがとう」


彩がそう言うと、裕介はゆっくりと顔を上げた。

その目には怒りも悲しみもなく、ただ長い疲労だけが沈んでいた。


「出すのか?」


裕介の声は、かすれていた。

彩は答えられなかった。


出すつもりで呼んだはずなのに、今はその言葉が喉の奥で固まって動かない。


リビングの時計が、静かに秒を刻む。

その音だけが、二人の間に流れる沈黙を埋めていた。


裕介は視線を落とし、署名したばかりの離婚届にそっと手を触れた。

まるで、自分が書いた文字が本当にそこにあるのか確かめるように。


「……どちらでもいい。彩が決めてくれ」


その言葉は、投げやりではなかった。

長い年月の果てに、ようやく辿り着いた諦念のような、静かな受け入れだった。


彩は胸の奥がじんわりと痛むのを感じた。

涙ではなく、空洞に近い感覚。

後悔と安堵と喪失が、同じ場所に重なっている。


「今日は……もう、しまっておくね」


彩は離婚届をそっと裏返した。

見えなくなるだけで、現実が消えるわけではない。


それでも、今は見たくなかった。

裕介は何も言わず、ただ小さくうなずいた。


その仕草が、かえって胸に刺さった。

二人の間に、これまでとは違う静けさが落ちた。


終わりなのか、まだ続くのか。

その境界線の上に、二人はただ座っていた。


浴びるほどの思い出と、醜さと悲しさと虚しさだけが残っていた気がした。



----


織の部屋に戻ったとき、外はもう暗くなっていた。

玄関の鍵を閉める音が、やけに大きく響いた。

裕介は靴を脱ぎながら、深く息を吐いた。


「……離婚届、書いてきた」


リビングの隅で、織はキーボードを叩いていた。

画面の光が頬を照らし、指先だけが一定のリズムで動いている。


「そう」

織は手を止めなかった。


ただ、声だけがこちらに向けられた。

裕介はコートを椅子に掛け、ゆっくりと織の背中に近づいた。

その背中は、いつもと同じようにまっすぐで、揺れていなかった。


「提出は……彩に任せた。後で、連絡が来ると思う」


織の指が、ようやく止まった。

画面のカーソルが、点滅を繰り返す。


「……大変ね、彩さんも」


その言い方は、同情でも批判でもなかった。

ただ、事実を静かに受け止めるような声音だった。


裕介は、織の横に立った。

机の上には、書きかけの歌詞と、冷めたコーヒーが置かれている。


織は椅子を回し、ようやく裕介のほうを向いた。


「裕介も、疲れた顔してる」

「……まあな」

「美ちゃん、泣いた?」


裕介は目を伏せた。

その沈黙だけで、織には十分だった。


「そっか」


織は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。

その横顔は、どこか遠くを見ているようだった。


「彩さんも、美ちゃんも……あなたも。

誰も悪くないのに、誰も楽じゃないね」


裕介は返す言葉を見つけられなかった。

織の言葉は、責めるでも慰めるでもなく、ただ真実だけを置いていく。


「……俺は、どうすればいい?」


ようやく絞り出した声は、情けないほど小さかった。

織はゆっくりと立ち上がり、裕介の前に歩み寄った。

そして、胸元にそっと手を置いた。


「今日は、何もしなくていいよ。

決めるのは彩さん。

あなたは……帰ってきたんだから、それでいい」


その言葉に、裕介はようやく息を吐いた。

肩の力が抜け、重さが少しだけ落ちた気がした。

織は微笑んだ。

強くも優しくもない、ただ静かな微笑みだった。


「おかえり」


その一言が、裕介の胸の奥にゆっくりと染み込んでいった。

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