46.解放という名の別れ
裕介がどこで何をしているのか、問いただすつもりはなかった。
涼は「女ができたんだろう」と軽く言っていたが、そうさせた要因が自分にもあることは、彩が一番よく分かっていた。
結婚して二十年以上、裕介は一度たりとも浮気などしなかった。
それなのに、ここ数年は美につきっきりで、夫婦として向き合う時間をほとんど作れなかった。
あのとき、もっと話していれば。
もっと寄り添っていれば。
そう思うほど、今になって悔しさが込み上げてくる。
市役所でもらってきた離婚届は、薄い紙のくせに、妙に重かった。
彩はそれをテーブルの端に置き、何度も視線をそらした。
記入欄はほとんど埋めてある。
あとは裕介の署名と押印だけだった。
今度の日曜日、裕介が戻ってくる。
そのためだけに。
もうすでにLINEで、協議は済んでいた。
残りの住宅ローンはすべて裕介が払う。
退職金は折半して支払う。
養育費は、美が卒業するまで月三万円。
裕介が提示してきた条件に、彩は静かに「分かった」と返した。
涼は「女がいるなら慰謝料くらい取れ」と言ったが、彩は首を横に振った。
責める気持ちよりも、終わらせたい気持ちのほうが強かった。
久しぶりに顔を出した次男は、離婚届を見ても「ふうん」とだけ言った。
驚きも怒りもない。
すでに隣の市で彼女と同棲を始めている彼にとって、両親の離婚は、もう自分の生活とは別の出来事なのだろう。
彩は、テーブルの上の離婚届を見つめた。
紙の端が、エアコンの風でわずかに揺れた。
——本当に、これで終わるんだ。
胸の奥が、じんわりと痛んだ。
涙ではなく、空洞に近い感覚だった。
二十数年の結婚生活。
良いことも悪いこともあった。
裕介が家に帰らなくなった理由を、涼は「女だ」と言った。
でも、彩は分かっていた。
そうさせた要因が、自分にもあることを。
美につきっきりになり、夫婦として向き合う時間を作れなかった。
裕介は一度も浮気などしなかったのに。
あの頃、もっと話していれば。
もっと寄り添っていれば。
後悔は、今になってようやく形を持つ。
彩は深く息を吸い、離婚届をそっと裏返した。
見えなくなるだけで、現実が消えるわけではない。
それでも、今は見たくなかった。
リビングの時計の秒針が、静かに進む音だけが響いていた。
日曜日まで、あと四日。
その日を境に、家の空気は確実に変わる。
彩は、湯を沸かすために立ち上がった。
何かをしていないと、胸の奥の空洞に飲み込まれそうだった。
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日曜日。
玄関の鍵が回る音がして、裕介がゆっくりと家に入ってきた。
彩はリビングのテーブルに離婚届を置き、湯気の消えたお茶の前で静かに待っていた。
裕介は無言で椅子に座り、ペンを手に取る。
その仕草は、書類にサインするというより、長い年月に区切りをつける儀式のようだった。
ペン先が紙に触れようとした、その瞬間だった。
「……お父さん?」
階段のほうから、美の声がした。
彩も裕介も、反射的に顔を上げた。
美は、手すりを握りしめたまま立ち尽くしていた。
目が赤い。泣いたのか、泣くのをこらえているのか、判断がつかない。
「別れないで」
その言葉は、思いのほか小さく、しかし鋭く部屋の空気を切り裂いた。
彩は息を呑んだ。
裕介はペンを握ったまま固まった。
美はゆっくりとリビングに降りてきた。
足取りは震えているのに、言葉だけははっきりしていた。
「お母さん……これから働くの、無理でしょ。
私が就職するまで……せめて、それまで待ってよ」
彩は目を見開いた。
美がそんなことを考えていたなんて、思いもしなかった。
「シングルマザーって、大変なんだよ。
学校でも聞いたし、友達のお母さんも……」
美は言葉を詰まらせ、唇を噛んだ。
「お父さんがいなくなったら……お母さん、困るでしょ。
私だって……困るよ」
裕介は胸の奥が締めつけられるのを感じた。
美は、父の不在を何も言わずに受け入れているように見えた。
だが、それはただ、言えなかっただけなのだ。
彩は椅子から立ち上がり、美の前に歩み寄った。
そして、そっと娘の肩に手を置いた。
「美……ありがとう。でもね、これは……お母さんが決めたことなの」
美は首を振った。
「なんで? なんで今なの?私、あと一年で卒業なのに……」
彩はゆっくりと裕介のほうを見た。
そして、娘に向き直り、静かに言った。
「もう…解放してあげたいの」
その言葉は、刃物のように鋭くはなかった。
けれど、美の胸に深く刺さった。
「……解放って……何?お父さん、そんなに…嫌だったの?」
美の声が震えた。
彩は慌てて首を振る。
「違うの。そうじゃないの。お父さんを責めたいわけじゃない。
ただ……もう、夫婦としては続けられないの」
裕介は、何も言えなかった。
美の視線が痛いほど突き刺さる。
彩の言葉も、胸の奥に重く沈む。
美は、彩の手を振り払うようにして一歩下がった。
「……勝手だよ。二人とも……勝手すぎるよ」
そのまま、美は階段を駆け上がっていった。
二階のドアが強く閉まる音が響く。
リビングには、離婚届と、沈黙だけが残った。
裕介は、ペンを握ったまま動けなかった。
彩は、深く息を吐き、目を閉じた。
——この瞬間、三人の家族は、静かに形を変え始めた。




