45.静かに終わる夫婦
彩からのメッセージを読んだ瞬間、
裕介はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。
短い文面なのに、
胸の奥に重い石を落とされたような感覚があった。
「このままでは、美のためにも良くないと思うの。
一度、私たちのこれからを話したい」
読み返すたび、彩の声が脳裏で再生される。
責めるでもなく、
泣きつくでもなく、
ただ静かに、決意だけが滲んでいた。
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裕介は織の部屋のリビングにいた。
ソファに腰を下ろし、スマホを伏せたまま、
言葉を探すように天井を見つめていた。
「……彩から、連絡が来た」
織は湯気の立つマグカップをテーブルに置き、
軽く眉を上げただけだった。
「ふうん。なんて?」
裕介は、画面を見せる代わりに、
ゆっくりと文面を読み上げた。
織は最後まで聞いても、表情を変えない。
「とりあえず、話だけでもしてみたら?」
その言い方は、冷たいわけではなかった。
ただ、他人の家庭の問題に深入りしないという、
織らしい距離感だった。
「……そうだな」
裕介は答えながら、
胸の奥に小さな空洞ができるのを感じた。
織は自分の逃げ場ではあっても、
答えをくれる存在ではない。
その事実が、今になって重くのしかかる。
マグカップを両手で包みながら、
織は視線を窓の外に向けた。
夜の街の灯りが、彼女の横顔を淡く照らしている。
「裕介がどうしたいか、じゃないの?
彩さんがどう言ったかじゃなくて」
その言葉は、優しさでも、突き放しでもなかった。
ただ、事実を静かに置いただけのような響きだった。
裕介は返事ができなかった。
どうしたいのか、自分でも分からなかった。
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二日後の夕方、裕介は彩の待つ家へ向かった。
玄関の前に立つと、
鍵を開ける音がやけに大きく聞こえた。
リビングには、湯気の消えたお茶が二つ。
美はめずらしく不在で、今日の帰りは遅くなるらしい。
彩はテーブル越しに座り、深呼吸をひとつしてから、
静かに口を開いた。
「来てくれて、ありがとう」
その声は震えていなかった。
むしろ、これまでで一番落ち着いているように見えた。
「…美の前で、
今のままの関係を続けるのは、違うと思うの」
裕介は視線を落とした。
彩は続ける。
「責めたいわけじゃないの。
ただ……私たち、もう夫婦としては戻れないって、
ずっと感じてた」
その言葉は、刃物のように鋭くはなかった。
ただ、長い時間をかけて磨かれた石のように、
静かに胸に沈んでいった。
「時間をかけてもいい。
でも、私はもう“やり直す”という、
選択肢は持っていないの」
裕介は、ようやく顔を上げた。
彩の目は、涙ではなく、覚悟で濡れていた。
「…美のこと、二人で考えよう。
あなたを父親として否定するつもりはないから」
その瞬間、裕介は初めて理解した。
彩はもう、自分を“夫”として見ていない。
ただ、美の父親としての役割だけを残している。
言葉が出なかった。
喉の奥に、何か硬いものが詰まったようだった。
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話し合いを終え、
家を出た裕介は、
車に乗り込んだものの、
エンジンをかける気になれなかった。
織の部屋へ向かう気にもなれない。
夜の空気は冷たく、
街灯の光がフロントガラスに滲んで見えた。
彩の静かな強さが胸に残っている。
美の笑顔が浮かぶ。
そして、織の距離感が、急に遠く感じられた。
裕介は、しばらくの間、
ハンドルに額を押し当てたまま動けなかった。
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「で、裕介はどうしたいの?」
思ったより早く部屋に帰ってきた裕介に、織が尋ねた。
「…俺は、ここにいたい」
「ふうん、まあ、もうほとんどいるけどね」
「現実的な話をすると、
その金銭的なところが大きいんだ」
言葉を選びながら、裕介は視線を落とす。
離婚すれば、
美の養育費と住宅ローンは確実に残る。
不貞行為を責められ、
裁判に発展するとは思っていないが、
もしそうなれば、織にしてやれることはさらに減る。
それが、裕介には妙に引っかかっていた。
「ふふ。どうせ何もしないじゃん、私たち」
織は笑って言う。
その笑いは、責めるでも甘えるでもない、
ただの事実確認のようだった。
「でも、この間のホテルだって、結局……」
裕介は言いかけて口をつぐむ。
あの夜、支払いをしたのは織だった。
「やっぱり……
その、もし彩と離婚したら、
ちゃんと……織と向き合いたくて」
言葉にした瞬間、
自分でも何を守ろうとしているのか、
分からなくなる。
織は少しだけ目を細め、静かに首を振った。
「裕介、それは優しさじゃないよ」
「え?」
「私に食わせてもらうとか、
男に縋って生きるつもりは毛頭ないの。
分かってるでしょ?」
「……まあ、それは、そうなんだけど……」
裕介は言葉を失う。
織はマグカップをテーブルに置き、
まっすぐに裕介を見る。
「裕介は、自分の人生を選ぶ。
その責任を取るだけ。それで十分じゃない?」
その言葉は、慰めでも叱責でもなかった。
ただ、織という人間の“立ち位置”を、
静かに示すだけの、揺るぎない線引きだった。




