表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
枯淡  作者: 水原伊織


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

45/63

45.静かに終わる夫婦

彩からのメッセージを読んだ瞬間、

裕介はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。


短い文面なのに、

胸の奥に重い石を落とされたような感覚があった。


「このままでは、美のためにも良くないと思うの。

一度、私たちのこれからを話したい」


読み返すたび、彩の声が脳裏で再生される。

責めるでもなく、

泣きつくでもなく、

ただ静かに、決意だけが滲んでいた。


----


裕介は織の部屋のリビングにいた。

ソファに腰を下ろし、スマホを伏せたまま、

言葉を探すように天井を見つめていた。


「……彩から、連絡が来た」


織は湯気の立つマグカップをテーブルに置き、

軽く眉を上げただけだった。


「ふうん。なんて?」


裕介は、画面を見せる代わりに、

ゆっくりと文面を読み上げた。


織は最後まで聞いても、表情を変えない。


「とりあえず、話だけでもしてみたら?」


その言い方は、冷たいわけではなかった。


ただ、他人の家庭の問題に深入りしないという、

織らしい距離感だった。


「……そうだな」


裕介は答えながら、

胸の奥に小さな空洞ができるのを感じた。


織は自分の逃げ場ではあっても、

答えをくれる存在ではない。


その事実が、今になって重くのしかかる。


マグカップを両手で包みながら、

織は視線を窓の外に向けた。


夜の街の灯りが、彼女の横顔を淡く照らしている。


「裕介がどうしたいか、じゃないの?

彩さんがどう言ったかじゃなくて」


その言葉は、優しさでも、突き放しでもなかった。

ただ、事実を静かに置いただけのような響きだった。


裕介は返事ができなかった。


どうしたいのか、自分でも分からなかった。


----


二日後の夕方、裕介は彩の待つ家へ向かった。

玄関の前に立つと、

鍵を開ける音がやけに大きく聞こえた。


リビングには、湯気の消えたお茶が二つ。

美はめずらしく不在で、今日の帰りは遅くなるらしい。


彩はテーブル越しに座り、深呼吸をひとつしてから、

静かに口を開いた。


「来てくれて、ありがとう」


その声は震えていなかった。

むしろ、これまでで一番落ち着いているように見えた。


「…美の前で、

今のままの関係を続けるのは、違うと思うの」


裕介は視線を落とした。


彩は続ける。


「責めたいわけじゃないの。

ただ……私たち、もう夫婦としては戻れないって、

ずっと感じてた」


その言葉は、刃物のように鋭くはなかった。


ただ、長い時間をかけて磨かれた石のように、

静かに胸に沈んでいった。


「時間をかけてもいい。

でも、私はもう“やり直す”という、

選択肢は持っていないの」


裕介は、ようやく顔を上げた。


彩の目は、涙ではなく、覚悟で濡れていた。


「…美のこと、二人で考えよう。

あなたを父親として否定するつもりはないから」


その瞬間、裕介は初めて理解した。


彩はもう、自分を“夫”として見ていない。


ただ、美の父親としての役割だけを残している。


言葉が出なかった。

喉の奥に、何か硬いものが詰まったようだった。


----


話し合いを終え、

家を出た裕介は、

車に乗り込んだものの、

エンジンをかける気になれなかった。


織の部屋へ向かう気にもなれない。


夜の空気は冷たく、

街灯の光がフロントガラスに滲んで見えた。


彩の静かな強さが胸に残っている。


美の笑顔が浮かぶ。


そして、織の距離感が、急に遠く感じられた。


裕介は、しばらくの間、

ハンドルに額を押し当てたまま動けなかった。


----


「で、裕介はどうしたいの?」


思ったより早く部屋に帰ってきた裕介に、織が尋ねた。


「…俺は、ここにいたい」

「ふうん、まあ、もうほとんどいるけどね」

「現実的な話をすると、

その金銭的なところが大きいんだ」


言葉を選びながら、裕介は視線を落とす。


離婚すれば、

美の養育費と住宅ローンは確実に残る。


不貞行為を責められ、

裁判に発展するとは思っていないが、

もしそうなれば、織にしてやれることはさらに減る。


それが、裕介には妙に引っかかっていた。


「ふふ。どうせ何もしないじゃん、私たち」


織は笑って言う。


その笑いは、責めるでも甘えるでもない、

ただの事実確認のようだった。


「でも、この間のホテルだって、結局……」


裕介は言いかけて口をつぐむ。


あの夜、支払いをしたのは織だった。


「やっぱり……

その、もし彩と離婚したら、

ちゃんと……織と向き合いたくて」


言葉にした瞬間、

自分でも何を守ろうとしているのか、

分からなくなる。


織は少しだけ目を細め、静かに首を振った。


「裕介、それは優しさじゃないよ」


「え?」


「私に食わせてもらうとか、

男に縋って生きるつもりは毛頭ないの。

分かってるでしょ?」


「……まあ、それは、そうなんだけど……」


裕介は言葉を失う。


織はマグカップをテーブルに置き、

まっすぐに裕介を見る。


「裕介は、自分の人生を選ぶ。

その責任を取るだけ。それで十分じゃない?」


その言葉は、慰めでも叱責でもなかった。


ただ、織という人間の“立ち位置”を、

静かに示すだけの、揺るぎない線引きだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ