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枯淡  作者: 水原伊織


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43/65

43.風の記念日

横浜の屋上庭園ホテル。

そこが今回の「ロケ」に選んだ場所だった。


織は、スマホの画面を見せながら言った。


「ここ、宿泊者専用の屋上庭園があるんだって。

夜はほとんど人が来ないらしいよ」


画面には、

海風が吹き抜けるような、

開放的な写真が並んでいた。


街の灯りが遠くに滲み、

ガラスの手すり越しに港の光が揺れている。


普段は出不精なのに、こういう時だけは驚くほど動きが

早い。

織は、予約サイトを開いたまま、

迷いなく指を滑らせていく。


「ここ、空いてる。今日の夜なら行けるよ」


まるで、夕飯のメニューでも決めるような軽さだった。

裕介は思わず苦笑した。


「普段はコンビニ行くのも面倒くさがるくせに」

「だって、これは“仕事”だから」


織はあっけらかんと言った。

その言い方に、少しだけ誇らしさが混じっている。


「仕事って……」

「うん。外の空気、ちゃんと感じたいの。


風の温度とか、街の音とか、匂いとか……。

そういうの、部屋の中じゃ絶対に書けないから」


織の目は、もう“作家の目”になっていた。

何かを掴もうとしているときの、あの独特の光。


裕介は、その光を見るたびに思う。

こういう瞬間があるから、

織とは長く続いているのだと。


予測できない。

とどまらない。


創作のためなら、平然と境界を越える。

その危うさに、また惹かれてしまう。


「それに…」

織が少しだけ間を置いて言った。

言葉を探しているというより、胸の奥にあるものをそっ

と取り出すような間だった。


「私たち、もう一年以上、こうして一緒にいるからさ」


裕介は、思わず顔を上げた。


「……記念、だね?」

「そう。今までで、一番長い裕介と、記念で」


織はにっこりと笑った。

その笑顔は、無邪気さと照れと、そしてほんの少しの誇

らしさが混ざっていて、裕介は一瞬、息を飲んだ。


引きこまれる。

この笑顔に、何度も。


「じゃ、決まりね」


織は予約ボタンを押し、スマホをテーブルに置いた。

その動作は軽いのに、裕介の胸の奥では、静かに何かが

動き始めていた。


それは不安でも、期待でも、嫉妬でもなく、

ただ、織と過ごした一年の重みが、

ゆっくりと形を持ちはじめたような感覚だった。


----


横浜に着いたときには、すでに夜の気配が濃くなってい

た。


ホテルのエントランスは、昼間とは違う静けさをまとい

、ガラス越しに見えるロビーの光が、

外の闇に柔らかく滲んでいた。


自動ドアが開くと、冷たく整えられた空気がふわりと肌

に触れた。


外の湿った夜風とはまったく違う、ホテル特有の“非日

常の匂い”。


織は迷いなくフロントへ向かう。


普段は出不精なのに、こういう時だけは驚くほど動きが

早い。


「最上階、取れたよ。屋上庭園にすぐ行けるフロア」


カードキーを受け取った織は、

まるでロケハンに来たスタッフのように、

軽やかに笑った。


エレベーターに乗り込むと、上昇するたびに街の音が遠

ざかり、代わりに静けさが濃くなっていく。

最上階の廊下はひんやりとして、窓の外には港の灯りが

静かに揺れていた。


「ね、いいでしょ? この感じ」


織が振り返る。

その横顔に浮かぶ期待と高揚が、裕介の胸の奥に、また

静かに波紋を広げた。


----

シャワーを浴びて火照った身体を、

バスローブがやわらかく包んでいた。


髪を軽く乾かしただけの織は、

いつもより素朴で、どこか無防備に見える。


「行こっか」


織がカードキーを手にして言う。

その声には、緊張よりも期待が混じっていた。


最上階の廊下は、夜の静けさをそのまま閉じ込めたよう

にひんやりしている。

足音が吸い込まれていく。


屋上庭園へ続く扉の前に立つと、外気の気配がわずかに

漏れていた。

織がカードキーをかざす。


電子音が鳴り、扉がゆっくりと開いた。

その瞬間、風がふわりと流れ込んできた。


夜の風。


街の灯りの匂いと、海の湿り気が混ざった、

横浜特有の空気。


シャワー上がりの肌に触れると、

思わず息が吸い込まれるほど心地よい。


「……わあ」


織が小さく声を漏らした。


その横顔は、

まるで初めて海を見た子どものように素直だった。


庭園は、低いライトに照らされて、

静かに広がっていた。


ガラスの手すり越しに、港の光が揺れている。

遠くの車の音が、風に溶けてかすかに届く。


織は一歩、風の中へ踏み出した。

バスローブの裾が、風に揺れる。


「ねえ、これ……すごくいい」


振り返った織の目は、

完全に“作家の目”になっていた。


風の温度、匂い、音──そのすべてを吸い込んで、

作品に変換しようとしている。


----


庭園の奥にあるベンチに腰を下ろすと、

ガラスの手すり越しに、

港の光が静かに揺れていた。


遠くの船の汽笛が、風に溶けてかすかに届く。


織は、風に髪を揺らしながら夜景を見つめていた。

バスローブの白が、月明かりを受けて淡く光っている。


その横顔を見た瞬間、裕介は息を飲んだ。


月明かりに照らされた織の横顔が、

あまりにもきれいだった。


作家としての鋭さも、普段の無防備さも、

全部がひとつに溶けて、静かにそこにある。


「……すごいね、この風」


織がぽつりと言った。

声は小さいのに、風に乗ってはっきりと届く。


「うん。気持ちいい」


裕介はそう答えながら、

視線を夜景に向けようとして、

また織の横顔に戻ってしまう。


一年以上一緒にいるのに、

こんなふうに心を奪われる瞬間がまだある。


その事実が、胸の奥でじんわりと温かく広がった。


織は風を吸い込むように深呼吸し、

目を細めて夜空を見上げた。


「こういう空気、作品に使える気がする」


その言葉は、独り言のようで、

でもどこか裕介に、

向けられているようでもあった。


裕介は、ただ静かに頷いた。


風の音と、織の呼吸と、遠くの街のざわめき。


そのすべてが、今だけの“記念”のように思えた。

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