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枯淡  作者: 水原伊織


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42.俺ではない誰かとの思い出

裕介は、織の新作を読みながら、ページの端に指を置いたまま動けなくなった。

最近の作品は、もう自分との情事をなぞってはいない。


それは分かっている。

けれど、行間のどこかに、織の体温のようなものが確かに残っている。


ただ、その温度の中心にいるのは、自分ではない。

別の出来事。

別の誰か。

あるいは、織自身の過去。


その気配を感じるたび、胸の奥がざわついた。

嫉妬とも違う。

寂しさとも違う。

ただ、織の内側に、自分の知らない扉がまだいくつもあるのだと突きつけられるようだった。


裕介がページを閉じると、織は椅子を回してこちらを見た。

髪をひとつにまとめ、コーヒーを片手にしている。


その表情は、まるで天気の話でもするような軽さだった。


「ねえ、これ……最近のやつ、俺のことじゃないよね?」


裕介がそう言うと、織は一瞬だけ目を細め、すぐに笑った。


「うん。過去の体験も入ってる」


あまりにもあっけらかんとした言い方だった。

恥じらいも、ためらいもない。

ただ事実を述べただけ、といういつもの織の調子。


裕介の胸の奥で、何かが小さく揺れた。


嫉妬とも違う。

不安とも違う。


ただ、織の中には自分の知らない“領域”がまだいくつもあるのだと、改めて突きつけられたような感覚だった。


織は続けた。


「だって、全部裕介のこと書いてたら、バレるでしょ?

それに、過去のほうが素材としては使いやすいの。

距離があるから、冷静に見られるし」


創作する者の言葉だった。

そこに悪意はない。

むしろ、誠実ですらある。


けれど、裕介は返事ができなかった。

織の“創作の源”に、自分が完全には入り込めないという事実が、静かに胸に沈んでいった。

織はそんな裕介の沈黙に気づいたのか、コーヒーを置き、軽く肩をすくめた。


「ふふ…ひょっとして嫉妬?」

「…それもあるかも」

「でも、燃える、でしょ?」

「…よく、分かってるね」

「クーリッジ効果」


織はそれだけを言って、またキーボードを打ち始めた。


----


織は、原稿の画面を閉じると、コーヒーをひと口飲んで言った。


「ねえ、作品のためにさ…外で、やってみたい」


軽い口調だった。


裕介は言葉を失った。

冗談かと思ったが、織の目は真剣だった。


「外って…どこで?」

「どこでもいいよ。空気が違えば、書けるものも変わるから」


織は、創作の話をしているだけだった。

そこに恥じらいも、ためらいもない。

ただ、作家としての“欲”があるだけ。


裕介の胸の奥で、何かがざわついた。

自分が求められているのか、

それとも“素材”として必要とされているだけなのか、

判断がつかなかった。


織は続けた。

織は、まるで散歩の行き先でも相談するような軽さで言った。


「ね? どう思う?」


裕介は、しばらく言葉を探した。

織の目は真剣で、けれどどこか無邪気でもある。


「……恥ずかしくはない?」

「それも含めて、どんな感じになるのかなあって」


織は、指先でマグカップの縁をなぞりながら言った。

創作の話をしているときの、あの独特の熱が声に混じっている。


「そうか」


裕介は小さくつぶやいた。

織は続ける。


「私、外でしたこと、ないから」


その言い方は、経験の告白というより、

“まだ知らない感覚がある”と気づいた子どものような、

純粋な好奇心に近かった。


裕介の胸の奥で、複雑な感情がゆっくりと動いた。

驚き、戸惑い、そして少しの不安。


織の創作衝動は、時々こうして自分の想像を軽々と越えていく。

織は、裕介の沈黙に気づいたのか、首をかしげた。


「変かな?」


その問いは、責めるでもなく、試すでもなく、

ただ“あなたはどう感じるの?”と素直に尋ねているだけだった。

裕介は、すぐには答えられなかった。


実際にするにしても、アダルトビデオにあるような、公園や駅の多目的トイレなどでするわけにもいかない。


「ちょっと、ロケは考えよう」

裕介がそう言うと、織が微笑む。

「お、やる気だね」


「……普通は、男のほうが言うんだけどな」

「まあまあ」

織は軽く手を振った。

まるで、深刻な話をしているつもりはまったくない、という仕草だった。


織にとってこれは、“創作のための素材をどう得るか”という、純粋な仕事の話なのだ。

織は続けた。

「だって、知らない場所の空気って、書くときにすごく効くんだよ。

緊張とか、匂いとか、音とか…。そういうの、部屋の中じゃ拾えないから」


その説明は、作家としての本気そのものだった。


確かに、小林ユキ名義の作品の売り上げは好調だった。

数字だけでなく、レビューの熱量も違う。


読者は、織の書く“温度”に惹きつけられている。

裕介が読んでも、ぞくりとするものが多い。


生々しいのに、決して下品ではない。

むしろ、官能だけを研ぎ澄ませたような描写が続く。


ページをめくるたび、自分との情事が混ざっているのが分かる瞬間がある。


だが、最近はそれだけではなかった。


別の誰か。

別の時間。


織の過去の体験が、静かに、しかし確かに混ざっている。

その事実が、裕介の胸の奥に小さな棘のように残った。

織は、そんな裕介のざわつきを知ってか知らずか、

あっけらかんと言った。


「うん、過去の体験も入ってるよ。

だって、素材は多いほうがいいでしょ?」


その無邪気さが、逆に胸を締めつけた。


だが、こういう感情も、織と長く続いている理由のひとつだと、裕介はよく分かっていた。

織は、決して同じ場所にとどまらない。


創作のために平然と境界を越え、時に自分の想像を軽々と飛び越えていく。

その“予測できなさ”が、関係をマンネリにさせない。


安心と不安のあいだを揺らされるたびに、織という存在の奥行きに、また惹きつけられてしまうのだ。

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