41.名前を書くだけだよ
美は、今年4年生になる。
その美から、進路ガイダンスで保護者の署名が必要な書
類が出た、とLINEが届いた。
書いてほしい──短い文面だった。
ちょうど暖かくなってきたころの、土曜日の午前九時。
裕介はスマホを置き、織に「ちょっと行ってくるね」と
声をかけた。
「うん」
織は、布団の上でうつぶせになったまま答えた。
明け方まで執筆していたせいで、まだ深く眠っている。
身に着けているのは黒のTバックだけで、
肩から腰にかけての細いラインが、
薄い朝の光に浮かび上がっていた。
昨日は、今日のために早めに眠った。
だから二人は交わっていない。
それでも、寝ている後ろ姿を見た瞬間、背筋にぞくりと
したものが走った。
触れたい。
抱き寄せたい。
その衝動を、
裕介はふり払うようにして玄関へ向かった。
ドアを閉めると、静かな空気が背中にまとわりついた。
これから向かうのは、父親としての役割だけが残された
場所だった。
----
玄関の鍵を開けると、家の空気はいつもより少し冷たか
った。
土曜の午前の光が、リビングの床に細く伸びている。
彩は台所にいたが、振り返らなかった。
美は自室にいるのだろう。家の中は、静かすぎるほど静
かだった。
裕介は「書類、どこ?」とだけ声をかけた。
彩は無言で、ダイニングテーブルの端に置かれた封筒を
指さした。
封筒の中には、美の進路ガイダンスで配られた書類が数
枚。
保護者欄には、空白のままの署名欄がぽっかりと残って
いる。
椅子を引き、裕介は腰を下ろした。
名前を書く。
住所を書く。
電話番号を書く。
ただそれだけの作業なのに、胸の奥がざわつく。
父親としての役割が、ここにだけ残っている。
それ以外は、もう何も持っていない。
ペン先が紙を滑る音だけが、部屋に響いた。
彩は背中を向けたまま、何も言わない。
その沈黙が、言葉よりも重かった。
一枚書き終えるたびに、裕介は小さく息を吐いた。
書類は淡々と進むのに、心だけが置いていかれるようだ
った。
最後の署名欄に名前を書き終えたとき、ふと、織の寝姿
が脳裏に浮かんだ。
黒いTバックの細い線。
うつぶせの背中。
あの柔らかな呼吸。
その対比が、胸の奥に鈍い痛みを落とした。
封筒に書類を戻し、テーブルに置く。
「終わったよ」と言うと、彩はようやく振り返った。
目は赤くなっていたが、涙は見せなかった。
「ありがとう」
その一言が、妙に遠く聞こえた。
裕介は立ち上がり、玄関へ向かった。
父親としての役割をひとつ終え、また別の“生活”へ戻
っていく。
ドアを閉めると、家の中の静けさが一瞬だけ漏れ出し、
すぐに外の春の空気に溶けていった。
----
玄関のドアを開けた瞬間、ちょうど涼が帰ってきたとこ
ろだった。
今日は、独り暮らしをしている部屋から、実家近くの美
容室を予約していたらしい。
「あ……お父さん?」
涼の声は、驚きというより、戸惑いに近かった。
裕介は、靴を脱ぎかけた足をそのまま戻し、「久しぶり
」とだけ言って外へ出た。
会話はそれだけだった。
すれ違うように玄関を抜け、車へ向かう。
その背中を見送りながら、涼はなぜか「どこにいるの?
」と聞けなかった。
そこに立っていたのは、
“家に帰ってきた父親”ではなく、
まるで 親戚のおじさん のような、距離のある存在だ
った。
自宅の駐車場から車がゆっくりと出ていく。
涼はそのテールランプをぼんやりと見送っていた。
振り返ると、彩が立っていた。
肩をすぼめ、どこか遠くを見るような目をしている。
しばらく沈黙が続いたあと、彩は小さく、ほとんど息の
ような声でつぶやいた。
「……私が悪いの」
涼は言葉を失った。
否定したい。
そんなはずない、と言いたい。
けれど、喉の奥に何かがつかえて、声にならなかった。
彩は、涼の表情を見ようともせず、ただ前を向いたまま
続けた。
「認めたくないだけ」
その言葉は、誰に向けたものでもなく、自分自身に押し
つけるような、乾いた響きだった。
涼は拳を握りしめた。
母の言葉を否定できない自分が悔しかった。
けれど、何を言っても、今はきっと届かない。
そんな気がして、ただ立ち尽くすしかなかった。
玄関先に、春の風が吹き抜けた。
二人の間に落ちた沈黙は、
家の中の空気よりも重かった。




