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枯淡  作者: 水原伊織


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40.翼をもがれた男を、織は飼う

織の“嫌悪の源”は、過去の経験からきていた。


会社員だった頃、

織は何人もの女性社員を見てきた。


寿退社をしていく同僚、

夫婦共働きで愚痴をこぼし続ける先輩。


その姿を見ながら、織はいつも思っていた。


そんなに不満があるなら、

自立すればいいのに、と。


もちろん、DVのような暴力があるなら話は別だ。

だが、そうではないのに、

夫を“便利な存在”として扱い、

結婚して夫になった瞬間から、妻として、母として、

要求だけをエスカレートさせていく。


織には、それが理解できなかった。


うまくいっている夫婦を見ると、

お互いを尊重し合っているように見えた。


夫のことを「汚い」などと、

口にすることは決してないだろうし、

皿の洗い方が違うと文句を言うくらいなら、

全部自分でやればいい──織はそう考えていた。


そんな価値観の根には、両親の離婚があった。

織が就職した頃、両親は静かに別れた。


夫婦仲が悪いとは思えなかった。

ただ、織が手を離れたことで、

互いに別の人生を歩むと決めたのだと言った。


今でも、父と母が時々会っていることを、

織は知っている。


憎しみ合って別れたわけではない。


依存でも執着でもなく、

ただ“自分の足で立つ”という選択をした二人。

その姿が、織の価値観の核になっていた。


----


その夜、交わりのあと、

裕介の寝顔を見つめながら、織は思っていた。


本当の裕介が見てみたい、と。


優しさの奥に隠れているはずの激しさ。


創る者だけが持つ強さと衝動。


長くバンドを続けてきたという彼には、

確かに“創造する側”の思考がある。


それを自由に解き放ったら、

どんな姿になるのだろう──織は想像した。


だが今の裕介は、

翼をもぎ取られた鳥のようだった。


飛べないまま、

もぎ取られた場所から血を流し続けている。

その痛みを抱えたまま、

ただ静かに眠っている。


ここまで深く、

誰かの内側を知ってしまったのは初めてだった。


気づけば、もう一年が過ぎていた。


ただ、裕介が望まなければ、

何の意味もない。

彼自身がそういう意志を持たない限り、

どれほど織が願っても、

それはただの押しつけにしかならない。


だから織は決めていた。

裕介が自分の足で立ち、

何かを選び取ろうとするその時まで──

その傷を癒すために、そばで“飼う”のだと。


それは支配ではなく、

保護でもなく、ただの覚悟だった。

彼が再び飛べるようになるまで、

羽ばたく力を取り戻すまで、

織が面倒を見る。

それだけのことだった。


----


願う事さえ許されない。


ここにいる俺は、今、何をするべきだ?


はっと、

自分の脳裏に浮かんだ声で目が覚めた。


午前四時。


織は、隣で眠っている。


「…今のは?」


心の声だったのだろうと、

裕介は思い直した。

緊張感が無くなってきた影響なのか、

よく眠れるようになっていた。


最近は、特に、朝の目覚めがまるで違う。


この時間に起きても、

すっきりしている。

会社の支度をしていても、

別になんとも思わなくなってきた。


それに帰ってきた後でも、

あれしなければ、

早くやらなければ、が一切無い。


一緒にご飯を食べなければいけない。


風呂は早めに入らなければならない。


洗濯は早く終わらせなければ乾かない。


調教されていたことに気づかなかったのだ。


ふらっと遊びに出ていって、

無駄にお金を使わないように。


娘の時間を優先させるために。


「うーん…まだもう少し寝るか」


裕介は、つぶやいた。

仕事まであと少し時間はある。


仮に寝過ごしても、その時に考えればいいのだ。

そう思い直して、隣で寝ている織の首筋に唇を這わせた。


----


閉店後のスナック雪で、

りきは、

カウンターでウィスキーを傾けていた。

スタッフも帰り、店内には、雪と力だけだった。


「織は、男と住んでいるのか…」


「…もう一年くらい経つんじゃない?」


「この間、教えてくれても良かったのに」


「あなたが聞かないからよ、織のこと」


織の実の父である力が、頭を搔いた。


「まあ、織ももう、大人で、

有名な作家先生だしな。

男を囲うくらい、しないとな」


「ふふ、まあ、そんな感じでしょ、本当に」


「相手は、どんな奴なんだ?」


「そうねえ…所帯持ち」


「…はあ…なんで、そうなるかねえ」


力は深くため息をつき、

ウィスキーを一口飲んだ。

その表情には、

怒りでも呆れでもなく、

ただ“父親としての複雑さ”だけが滲んでいた。


雪はカウンター越しに力を見つめ、静かに言った。


「織が選んだんだから、きっと理由があるのよ。

あの子は、誰かに流されるような子じゃないもの」


力はしばらく黙っていた。

やがて、グラスの底を見つめたまま、

小さくうなずいた。

「……まあ、そうだな。

あいつが決めたなら、俺が口出すことじゃねえか」


店内の時計が、静かに時を刻む音だけが響いていた。

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