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枯淡  作者: 水原伊織


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39/39

39.壊れないために、壊れたままでいる

裕介と織の生活は、すでにほとんど同棲と言っていい形になっていた。

ただ、離婚していない以上、父親としての役割だけはまだ残っていた。


織との関係を悟られないようにしながら、その役割を続けていた。

裕介は、何の罪もない美のためだけに、自宅へ向かい、父親として必要なことだけをこなした。


彩は、何も言わなかった。


言葉にしてしまえば、すべてが壊れる。

そしてその瞬間、彩も美も、このかろうじて保たれている生活を失ってしまうのだ。


----


涼が帰ってきたのは、そんな日々が惰性のように続いていた頃だった。

連休が取れたからと、1泊だけ実家に戻ってきたのだ。


そして、何気ない調子で彩に言った。

今日、駅の近くでお父さんを見かけた、と。


土曜日の午後。

涼は続けて、女の人と一緒に歩いていた、と空気も読まずに口にしてしまう。


その瞬間、彩と美の胸の奥に沈んでいた疑念は、静かに、しかし確実に確信へと変わった。


「え…どうしたの?」

いくら鈍い涼でも気づくほど、家の中の空気は急に重くなっていた。


「…涼、教えてくれてありがとう」

「え、何? お母さん?」

「…お父さんね……もう、ずっと家にいないの」


その言葉を口にした瞬間、彩はリビングで崩れ落ちるように泣き出した。


美は、驚く涼の腕をつかみ、廊下へ連れ出した。


「相変わらず、空気読めないのね」

「美…だって、知らなくて…」


美は深く息を吐き、涼に向き直る。

裕介が帰ってこなくなった経緯を、ひとつずつ、静かに説明し始めた。


----


時々、駅前のスーパーへ買い物に出かける。

織も、気が向いたときは散歩がてらついてくる。


買い出しは、たいてい仕事が休みの日の昼間だ。マンションから近いので、急に必要になっても困ることはない。


むしろ、織がきちんと服を着ている姿のほうが珍しい。

髪を整え、メイクをして、服を選べば、誰が見ても相当な美人になるだろう。


けれど、その姿を誰かに見せたいわけではなかった。

織のそばにいられるだけで、それで十分だった。


----


美が卒業するまで待つ──彩が出した結論は、それだけだった。

離婚を切り出すことも、問いただすこともせず、ただ時間が過ぎるのを受け入れるように。


その判断に、美も涼も複雑な気持ちを抱えていた。


美は、自分のせいで彩が裕介と離れられないのだと思った。

母が自分を守ろうとして、痛みを抱えたまま立ち止まっている。その事実が胸に刺さった。


涼は、あの日、駅で見たことを口にしてしまった自分を悔いていた。

知らなかったとはいえ、あの一言が家の均衡を壊したのだと、帰省して初めて思い知った。


三人の間に流れる沈黙は、以前よりも長く、重くなった。

けれど誰も、その沈黙を破る言葉を持っていなかった。

壊れることを恐れながら、壊れたままの日々を続けるしかなかった。


----


「多分、何も言わないと思うよ、奥さんは」


背中越しに聞こえた織の声は、淡々としていた。

キッチンでまな板の上の野菜を刻んでいた裕介は、手を止めて振り返る。


「え?」

「裕介が私のところにいるって知っても。まあ、裕介から言う必要はないけど」


包丁の音が再び小さく響く。

裕介の“ばれたらどうしよう”という不安に、織はいつもの調子で答えていた。


「やっぱり、生活のことで?」

「言葉にすれば、私の存在を認めることになるから」

「…そういうもの?」

「今は、裕介は“ただ家にいないだけ”。どこに行ってるかは知らない──そういう形なの」


織は、事実だけを静かに並べた。

その無慈悲さは、彼女の冷たさではなく、状況そのものの冷たさだった。


裕介は言葉を失った。

元をただせば、すべては自分がつくった歪みだ。

織の言葉が残酷に響くのは、彼女が正しいからだった。

キッチンに漂う湯気の向こうで、織は何事もないように手を動かし続けている。

その横顔を見つめながら、裕介は胸の奥に沈んでいくような感覚を覚えた。


----


織は、理解しているつもりだった。

理解しているからこそ、割り切っていた。

離婚となれば泥沼になるかもしれない。

彩が感情を爆発させれば、世間に知られ、自分がスキャンダルの渦中に放り込まれる可能性だってある。

それでも──その先に何かがある気がしていた。

今はまだ形にならない、けれど確かに手触りだけはある“何か”。


それに。


織には、どうしても許せない種類の女がいた。

男に寄りかかりながら、自立もできず、相手の想いを縛りつける。

自分の不安を埋めるために、相手を意のままに操ろうとする。


そういう女が、昔から大嫌いだった。

嫌いになったなら、さっさと離れればいい。

それができないのは、自立できないからだ──織はそう思っていた。


裕介は、優しさにつけこまれている。

そう感じるたび、胸の奥に小さな苛立ちが灯る。

彼が悪いわけではない。

ただ、彼の優しさが、誰かの弱さに吸い取られていくのを見るのが、どうしようもなく嫌だった。


キッチンで湯気の立つ鍋をかき混ぜながら、織はふと裕介の方を見た。

彼は黙って立っている。

罪悪感と安堵が入り混じった、あの複雑な表情のまま。


織は、ため息をひとつだけ落とした。

その音に気づいたのか、裕介が小さく目を伏せる。


「…大丈夫だよ、裕介。私は、わかってるから」


その声は優しかったが、同時にどこか冷静で、揺らぎがなかった。

織は、彼を責めるつもりはなかった。

ただ、彼が誰かの弱さに縛られ続けることだけは、許せなかった。

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