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枯淡  作者: 水原伊織


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38/39

38.織の過去に触れるたび、家の習慣が消えていく

織は、最近の官能小説には、

過去の恋愛をそのまま作品に反映させていた。


会社員時代に経験した男二人同時の出来事も、

外での衝動的な関係も、

すべては物語の中で別の形に変換されていく。


「昔ね、こんなことがあったの」


織は布団の中で、時々ふと思い出したように話す。


声は淡々としているのに、

どこか遠くを見るような響きがあった。


裕介は、その話を静かに聞く。


表情は変えない。


けれど、胸の奥では何かがざわつく。


織はそれを知っている。

自分の過去を語るとき、

裕介の呼吸がわずかに深くなること。


言葉を選ぶように黙り込むこと。

その沈黙の中に、熱が潜んでいること。


「こういうの、作品に使ってるんだよ」


織は軽く笑う。


その笑いは、過去を恥じるものではなく、

“自分の歴史を素材にできる”という

作家としての確信に満ちていた。


裕介は、織の話をただの、

恋愛の記憶としては聞いていなかった。


織という人物の深部に触れる行為だと感じていた。


彼女がどんな場所で、

どんな感情で、

どんな選択をしてきたのか。


その積み重ねが、今の織を形作っている。


「裕介って、こういう話、嫌じゃないんだね」


織がふと尋ねる。


「嫌じゃない」


裕介は短く答える。


それ以上の言葉は出てこなかった。


嫌ではない。


むしろ、知りたい。


自分が知らない織の時間を、もっと。


織はその沈黙の意味を理解しているようだった。


「そっか」とだけ言い、

布団の中で身体を丸めた。


部屋の灯りは落とされ、

外の街灯の光だけが薄く差し込む。


その静けさの中で、裕介は思う。


織の過去は、

彼女の創作の源であり、

同時に、

自分が触れられる唯一の“彼女の歴史”なのだと。


そして、

その歴史に触れるたび、

織との距離が少しずつ深まっていくのを感じていた。


----


暑い季節がやってきた。


裕介の職場には、

電気炉と呼ばれる高温の装置が並んでいる。


炉が動き始めると、

室内の温度は簡単に四十度を超えた。


若い頃のように毎日現場に立つわけではない。


今は書類仕事が増え、

事務所でパソコンに向かう時間のほうが長い。


だが、時々若手の作業に混ざることがある。


そのとき、汗が一気に噴き出す。


顔を伝い、背中を流れ、作業着の中に溜まっていく。


息が熱く、視界が揺れる。

それでも、身体を動かしていると、

不思議と心が軽くなる。


「やっぱり、こっちのほうが性に合ってるな」


そう思う瞬間がある。


事務所で資料をいじっているときに感じる、

あの底のない虚無感。


誰が読んでいるのかも分からない報告書を作り、

意味のない会議に出て、

ただ時間だけが過ぎていくあの感覚。


現場に出ると、それが一度に吹き飛ぶ。


汗をかくと、働いている実感が戻ってくる。


自分がまだ“使える”人間であることを、

身体が教えてくれる。


若手が「ありがとうございます」と頭を下げる。


その言葉だけで、今日一日の重さが少しだけ軽くなる。


炉の熱気が肌にまとわりつく。


息苦しいほどの暑さなのに、

裕介はその暑さの中に、

どこか安心を感じていた。


----


定時のチャイムが鳴った瞬間、

反射的にスマホを取り出していた。

帰る前に彩へラインを送る

——その癖が、身体に染みついている。


けれど、画面を開いたところで、ふっと苦笑した。


もう彩のもとへ帰るわけではないのだ。


久しぶりの現場仕事で、

心だけ昔に戻ったのかもしれない。


彩にラインを送るのを忘れると、


「なんで送らなかったの?」


と必ず聞かれた。


それ以来、

会社を出るときは必ず連絡を入れるようになった。


寄り道するときは、その行き先まで。

その習慣だけが、まだ身体に残っていた。


織は、そんなことをまったく気にしなかった。

用事があるときだけラインを送ってくるが、

平日の昼間はほとんど連絡がない。


一度だけ、

会社を出るときに、

「今から帰る」とラインを送ったことがあった。


けれど、

織は裕介がマンションに着くまで、

既読すらつけていなかった。

ただ執筆に集中していただけだ。


そのとき裕介は思った。


(こんなくだらない連絡、送る必要はないんだな)


織にとって、

裕介が何時に帰ってこようと関係がない。


会いたいとき、

用事があるとき——

そのときだけラインが来る。


それ以外は、互いの時間を邪魔しない。

その“縛られない感じ”が、

裕介には驚くほど心地よかった。


----


汗のついた作業着を洗濯機に入れると、

脳裏に彩の声がよみがえった。


……汚いから、先に洗うね……


長年の習慣というのは、本当に恐ろしい。


裕介は、思わず苦笑した。


今は、

ある程度たまってから、

洗濯をするつもりでいる。


洗濯かごには、

織が脱いだ下着や服が無造作に放り込まれていた。


二人分とはいえ、夏場で衣類も少ない。


生活のリズムが、

いつの間にか“こちら側”に馴染み始めているのを、

裕介は静かに感じていた。

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