37.壊れていく家と、満たされていく部屋
結婚生活など、とっくに破綻していた。
それでも彩は、美のことを思うと、離婚を切り出すことができなかった。
そして何より——
彩は長いあいだ、裕介に寄りかかって生きてきた。
家計の管理も、進路の相談も、ちょっとした判断さえも、気づけば裕介に委ねていた。
自分ひとりで決めることが、いつの間にか怖くなっていた。
だから、裕介が家にいなくても、彩は何も言えなかった。
仕事にはきちんと行き、給料もこれまで通りに入ってくる。
生活は滞りなく回っていく。
ただ——家にいないだけなのだ。
その“いないだけ”が、いつの間にか日常の一部になっていた。
裕介の荷物が少しずつ減っていくことに気づいていても、彩は問いたださなかった。
問いただせるほどの力が、もう自分には残っていないことを、薄々わかっていた。
----
新刊の売れ行きは好調だった。
織はすでに次回作の構想を練り始めていた。
こういうときの織は、ずっと想像の中にいられる。
飽きるという感覚がそもそもない。
そして裕介は、余計な干渉をしてこない。
それなのに、声を出せば届く距離に、いつもいる。
織が「食べたい」と言えば、何かを用意してくれる。
セックスがしたくなれば、抱きつけばいい。
平日の昼間から缶ビールを飲んで眠っていても、何も言わない。
その“何も言わない”が、織にはとても心地よかった。
織の創作のリズムと、裕介の生活の気配が、静かに重なり合っていく。
その重なりが、織にとっては作品の一部のように思えた。
----
織は、裕介に家のことをいろいろやってもらえるのが本当に助かる、と素直に感謝してくる。
裕介は「全然負担じゃない」と言う。
そして、それは口先ではなく、本心だった。
片付けや清掃をしても、彩にはやり方に細かく文句を言われていた。
ある程度でいいと思っている裕介と、完璧主義の彩。
自宅にいるとき、裕介はいつもどこかで耐えていたのだ。
織と一緒に暮らすようになって、ようやくそれに気づいた。
「何も言われない」というだけで、こんなにも呼吸が楽になるのだと。
----
平日の昼間は、裕介は、仕事に出ている。
起きる頃にはいつもいない。
ただ、裕介は朝の欲求が強いのか、織の身体に触れていた気配がいつも残っている。
夜型の生活の織はいつも、おぼろげながらにしか覚えていない。
シャワーを浴びに行き、鏡を見る。
肌の艶が、以前よりも柔らかく見える気がした。
この間、部屋に来た雪に「なんか、いい感じで大事にされてるね」と言われたのを思い出す。
その言葉が、鏡の中の自分と妙に重なった。
作品の売れ行きは好調だった。
発売からしばらく経っても、数字は緩やかに伸び続けている。
定期的に入る印税だけでも、しばらくは困らないだろう——そんな安心感が、ようやく現実味を帯びてきた。
けれど、織は遊んで暮らすために書いているわけではなかった。
書かずにいると、どこか身体のどこかが空白になるような気がする。
キーボードを叩くときの指の速さも、言葉が勝手に並び始める感覚も、もう自分の一部になっていた。
昨今は、生成AIが普及し、誰でも小説らしい文章を作れる時代になった。
SNSには「AIで書いた」と堂々と宣言する作品も増え、出版業界もその波に揺れている。
だが、織は不思議と焦りを感じなかった。
自分の中にある感性——
言葉の選び方、沈黙の置き方、人物の呼吸の描き方。
それらは、どれだけ技術が進んでも、機械には触れられない領域だと、どこかで確信していた。
書くことは、織にとって“仕事”である前に、“生き方”そのものだった。
売れ行きがどうであれ、時代がどう変わろうと、書くことだけは手放せない。
むしろ、好調な数字は、その確信を静かに裏づけてくれるだけだった。




