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枯淡  作者: 水原伊織


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37/39

37.壊れていく家と、満たされていく部屋

結婚生活など、とっくに破綻していた。

それでも彩は、美のことを思うと、離婚を切り出すことができなかった。


そして何より——


彩は長いあいだ、裕介に寄りかかって生きてきた。


家計の管理も、進路の相談も、ちょっとした判断さえも、気づけば裕介に委ねていた。

自分ひとりで決めることが、いつの間にか怖くなっていた。


だから、裕介が家にいなくても、彩は何も言えなかった。

仕事にはきちんと行き、給料もこれまで通りに入ってくる。

生活は滞りなく回っていく。


ただ——家にいないだけなのだ。

その“いないだけ”が、いつの間にか日常の一部になっていた。


裕介の荷物が少しずつ減っていくことに気づいていても、彩は問いたださなかった。

問いただせるほどの力が、もう自分には残っていないことを、薄々わかっていた。


----


新刊の売れ行きは好調だった。

織はすでに次回作の構想を練り始めていた。

こういうときの織は、ずっと想像の中にいられる。

飽きるという感覚がそもそもない。


そして裕介は、余計な干渉をしてこない。

それなのに、声を出せば届く距離に、いつもいる。


織が「食べたい」と言えば、何かを用意してくれる。

セックスがしたくなれば、抱きつけばいい。


平日の昼間から缶ビールを飲んで眠っていても、何も言わない。

その“何も言わない”が、織にはとても心地よかった。


織の創作のリズムと、裕介の生活の気配が、静かに重なり合っていく。

その重なりが、織にとっては作品の一部のように思えた。


----


織は、裕介に家のことをいろいろやってもらえるのが本当に助かる、と素直に感謝してくる。

裕介は「全然負担じゃない」と言う。


そして、それは口先ではなく、本心だった。

片付けや清掃をしても、彩にはやり方に細かく文句を言われていた。


ある程度でいいと思っている裕介と、完璧主義の彩。

自宅にいるとき、裕介はいつもどこかで耐えていたのだ。


織と一緒に暮らすようになって、ようやくそれに気づいた。

「何も言われない」というだけで、こんなにも呼吸が楽になるのだと。


----


平日の昼間は、裕介は、仕事に出ている。

起きる頃にはいつもいない。

ただ、裕介は朝の欲求が強いのか、織の身体に触れていた気配がいつも残っている。

夜型の生活の織はいつも、おぼろげながらにしか覚えていない。


シャワーを浴びに行き、鏡を見る。

肌の艶が、以前よりも柔らかく見える気がした。

この間、部屋に来た雪に「なんか、いい感じで大事にされてるね」と言われたのを思い出す。

その言葉が、鏡の中の自分と妙に重なった。


作品の売れ行きは好調だった。

発売からしばらく経っても、数字は緩やかに伸び続けている。


定期的に入る印税だけでも、しばらくは困らないだろう——そんな安心感が、ようやく現実味を帯びてきた。

けれど、織は遊んで暮らすために書いているわけではなかった。

書かずにいると、どこか身体のどこかが空白になるような気がする。

キーボードを叩くときの指の速さも、言葉が勝手に並び始める感覚も、もう自分の一部になっていた。


昨今は、生成AIが普及し、誰でも小説らしい文章を作れる時代になった。

SNSには「AIで書いた」と堂々と宣言する作品も増え、出版業界もその波に揺れている。


だが、織は不思議と焦りを感じなかった。

自分の中にある感性——

言葉の選び方、沈黙の置き方、人物の呼吸の描き方。

それらは、どれだけ技術が進んでも、機械には触れられない領域だと、どこかで確信していた。


書くことは、織にとって“仕事”である前に、“生き方”そのものだった。

売れ行きがどうであれ、時代がどう変わろうと、書くことだけは手放せない。

むしろ、好調な数字は、その確信を静かに裏づけてくれるだけだった。

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