36.これ以上、傷つきたくなかった
玄関へ向かう裕介の背中に、家の空気がまとわりついていた。
必要な書類を書き終えたという事実だけが、淡々と身体を動かしている。
「じゃあ」と短く告げて靴を履こうとしたとき、視界の端に小さな影が立っていた。
美だった。
玄関の薄い光の中で、彼女はまっすぐ裕介を見ていた。
その表情は、迷いを押し殺したような、何かを決めた人間の顔だった。
「お父さん」
呼ばれた声は、思ったよりも落ち着いていた。
幼さはもうほとんど残っていない。
けれど、どこか震えているようにも聞こえた。
「美」
裕介は、反射的に名前を返す。
その声に感情は乗っていなかった。
美は一歩、裕介に近づいた。
視線は揺れず、逃げず、真正面からぶつけてくる。
「どうして、家にいないの?」
その問いは、責めるようでも、泣きつくようでもなかった。
ただ、真実を知ろうとする人間の、静かな決意だけが宿っていた。
家の奥からは、彩が皿を洗う水音が聞こえる。
生活の音があるのに、玄関だけが異様に静かだった。
美の言葉が、その静けさを切り裂くように響く。
裕介は、答えようとして、言葉が喉の奥で止まった。
理由はある。
説明もできる。
けれど、どれも“本当の答え”ではない。
美の目は、それを見抜いているようだった。
玄関の空気が重く沈む。
逃げ場のない問いが、裕介の胸にゆっくりと沈んでいく。
本当のことを言えば、おそらくすべてが破綻する。
裕介には、それが分かっていた。
けれど、美はきっと“本当のこと”を知りたいのだろう。
美には、何の罪もない。
だからこそ、裕介もすべてを話してしまえば楽になれる——そんな誘惑が、一瞬だけ胸をかすめた。
だが、言えるはずがない。
そのとき、リビングから彩が何かを察したように顔を出した。
「美……?」
美は振り返らず、裕介だけを見つめたまま言った。
「お母さんも、なんで? なんで、お父さん、家にいないのに——」
その声は震えていなかった。
泣き出すでも、責めるでもない。
ただ、真実を求める人間の、静かな決意だけが宿っていた。
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裕介は、結局、何も言えずに、自宅を出てきた。
車の時計は、10時を示している。
この短時間で、身体に滓のような物が一気に溜まったような感覚だった。
ラインの通知が鳴る。
裕介は、近くのコンビニの駐車場に車を停めた。
【了解】
短い、織からの返信だった。
それに続けて、返信する。
【やることは終わった】
【そうなんだ】
【今から帰る】
【わかった】
スマホを閉じると、コンビニに入り、レジでホットコーヒーを二つ注文する。
出てきたカップをマシンにセットする。
このコンビニは、コーヒーもテイクアウトしやすいように、専用のカップホルダーが置いてある。
コーヒーの入った紙コップに蓋をする。
カップホルダーにセットして、袋に入れる。
そこにシュガースティックとコーヒー用のクリームを数個入れる。
「ありがとうございました」
元気のいい店員の声を背に、店を出た。
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織も、甘いコーヒーが好きだ。
いや、コーヒーを甘くして飲むのが好き、といった方が正しいのかもしれない。
考えたが、どっちでも意味が同じな気がした。
買ってきたコーヒーを、電子レンジ対応のコーヒーカップに移し替える。
数十秒ほど温めた後、コンビニから持ってきたシュガースティックを三本、コーヒー用のクリームを一個開けて、入れる。
織にそれを渡した。
「これ、これ…ん~おいしい」
裕介も全く同じようにコーヒーを温め直す。
スティック三本、コーヒー用のクリーム一個。
この配分が、裕介は好きだった。
「裕介、疲れてるね」
「そうかな?」
「毎日さ、私の相手と、仕事で大変ね」
「どちらも、大変ではない」
「そう?」
「織の相手は、むしろ、したいくらいだ」
そこまで行って、織のむき出しの太ももを触り始める。
織は、されるがままで、コーヒーを飲んでいた。
その手が、徐々に内側に向かっていても、織は拒む様子は無かった。




