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枯淡  作者: 水原伊織


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35/40

35.家に戻っても、もう何も感じなかった

心はもう、どこにも残っていない。


それでも家族である以上、家族としての用事はつきまとう。


美の提出書類の保護者欄には、裕介が記入しなければならない箇所がある。


生命保険の更新も、車の車検も、放っておくわけにはいかない。


昼下がり、織と布団で絡み合っていると、スマホが鳴った。


LINEの通知音だ。


裕介は無視して、織の身体に腕を回し続けた。


しばらくしてから、一度織から離れる。


抱き合って、ただ出すことだけがセックスではない。

こうして、互いの体温を確かめるだけの時間も、十分に満たされる。


年齢のせいもあるのだろう。

もちろん、そのまま行為が始まることもあれば、途中でふと離れることもある。


LINEは、彩からだった。

通知ONにしている相手は限られているから、なんとなく予想はついていた。


【書いてほしい書類があるの】


明日は、日曜日。

一度、自宅に戻ってから対処すればいいと思った。


【いつまで?】


【来週の火曜日に、学校に提出するの】


【明日、帰ってから書く】


やりとりはそれだけだった。

帰ってから書く、という文章に、長年の習慣が出ている気がした。


----


スマホを伏せて、布団に戻る。

織は仰向けのまま、薄い光を受けて肌が淡く透けるように見えた。


その輪郭を目にした瞬間、胸の奥がじわりと熱を帯びる。


こんなにも静かで、こんなにも美しい裸を、自分はいつから“当たり前”のように抱いているのだろう。


裕介は、そっと織の腰に手を添えた。


触れたところから、ゆっくりと沈んでいくような感覚が広がる。

織の体温が、指先から腕へ、胸へと流れ込んでくる。


「…戻ってきた」


織が目を細めて言う。

その声が、さらに裕介を深いところへ引きずり込んだ。


「うん。まだ、離れたくない」


言葉にすると、余計に苦しくなる。

溺れる、というのはこういうことなのだろう。


理性よりも先に、身体が織に触れたがる。


肩の曲線、鎖骨の影、胸の上下する呼吸。

どれもが、見ているだけで喉が渇くようだった。


裕介は織の頬に手を添え、指で髪を払う。

そのまま、首筋へ、肩へとゆっくり滑らせる。


触れれば触れるほど、もっと触れたくなる。


愛撫というより、確かめるような、縋るような動きだった。

織は目を閉じ、微かに息を吸う。

その反応が、裕介の胸の奥をさらに揺らす。


「裕介…」


名前を呼ばれただけで、心の底がざわりと震えた。


織に触れていると、どこかにまだ微かな、生きるための感情の残滓があるような錯覚が生まれる。

その錯覚に、溺れたくなる。


裕介は織の身体を抱き寄せ、肌と肌を重ねた。


ただ抱き合うだけなのに、それだけで、世界の輪郭がぼやけていく。

織の温度が、呼吸が、自分をゆっくりと沈めていく。


----


裕介は、スマホを見ると、翌日の午前八時くらいだった。


早めに自宅の用事を済ませたい。

横で眠っている織を横目に布団から出た。


手早く着替え、財布とスマホ、キーホルダーをポケットに入れる。


玄関のドアを開けると、朝日がまっすぐ目に差し込んだ。

先日作った合鍵で静かに施錠する。


まだ眠っている織には、「自宅の用事を済ませてくる」とだけLINEを送っておいた。


車を走らせ、自宅へ向かう。


胸の内には、本当に何も湧いてこない。


後ろめたさも、悲しさも、迷いも。


ただ、やるべきことをやりに行くだけ。


そんな感覚だけが、淡々と身体を動かしていた。


----


玄関を開けた途端、空気がわずかに揺れた。


誰かが起きて動き始めたばかりの、あの独特の生活の匂いが漂っている。


しかし、温かいはずのその匂いが、裕介にはどこか遠く感じられた。


リビングからは、食器の触れ合う小さな音が聞こえる。


彩が朝食の片づけをしているのだろう。


美の足音も、階段のあたりから微かに響く。


“家族がいる音”がする。


それなのに、胸の奥はまったく動かない。


裕介は靴を脱ぎながら、ふと気づく。


この家の空気は、もう自分の体温を受け入れない。


ただ、生活の残り香だけが漂っている。


リビングに入ると、彩がこちらを見た。


驚きも、喜びも、怒りもない。


ただ、必要な情報を確認するような目だった。


「帰ってきたのね。書類、そこに置いてあるから」


その声は、淡々としていて、湿度がなかった。


長年連れ添った夫婦の会話というより、“役割を伝えるための言葉”に近い。


美はソファに座り、タブレットを見ていた。


裕介に気づくと、軽く会釈だけして、また画面に視線を戻す。


二人とも、そこに“いる”。


けれど、裕介の心には何も触れてこない。


むしろ、


「自分がいなくても、この家は問題なく回る」


という事実だけが、静かに胸に沈んでいく。


テーブルには、彩がまとめた書類が整然と置かれていた。


赤ペンで「保護者記入」と書かれた丸印が、妙に強く目に入る。


家族としての義務だけが、自分にまとわりついてくる。


彩は台所に戻り、美は画面に集中している。


会話はない。


テレビもついていない。


時計の秒針だけが、やけに大きく響く。


裕介はペンを取り、必要な欄を淡々と埋めていく。


手は動くのに、心はどこにも触れない。


ただ、作業をしているだけだった。


書き終えても、何も感じない。


達成感も、虚しさも、後悔も。


ただ、


“ここには自分の居場所がない”


という静かな確信だけが、ゆっくりと沈んでいく。

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