35.家に戻っても、もう何も感じなかった
心はもう、どこにも残っていない。
それでも家族である以上、家族としての用事はつきまとう。
美の提出書類の保護者欄には、裕介が記入しなければならない箇所がある。
生命保険の更新も、車の車検も、放っておくわけにはいかない。
昼下がり、織と布団で絡み合っていると、スマホが鳴った。
LINEの通知音だ。
裕介は無視して、織の身体に腕を回し続けた。
しばらくしてから、一度織から離れる。
抱き合って、ただ出すことだけがセックスではない。
こうして、互いの体温を確かめるだけの時間も、十分に満たされる。
年齢のせいもあるのだろう。
もちろん、そのまま行為が始まることもあれば、途中でふと離れることもある。
LINEは、彩からだった。
通知ONにしている相手は限られているから、なんとなく予想はついていた。
【書いてほしい書類があるの】
明日は、日曜日。
一度、自宅に戻ってから対処すればいいと思った。
【いつまで?】
【来週の火曜日に、学校に提出するの】
【明日、帰ってから書く】
やりとりはそれだけだった。
帰ってから書く、という文章に、長年の習慣が出ている気がした。
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スマホを伏せて、布団に戻る。
織は仰向けのまま、薄い光を受けて肌が淡く透けるように見えた。
その輪郭を目にした瞬間、胸の奥がじわりと熱を帯びる。
こんなにも静かで、こんなにも美しい裸を、自分はいつから“当たり前”のように抱いているのだろう。
裕介は、そっと織の腰に手を添えた。
触れたところから、ゆっくりと沈んでいくような感覚が広がる。
織の体温が、指先から腕へ、胸へと流れ込んでくる。
「…戻ってきた」
織が目を細めて言う。
その声が、さらに裕介を深いところへ引きずり込んだ。
「うん。まだ、離れたくない」
言葉にすると、余計に苦しくなる。
溺れる、というのはこういうことなのだろう。
理性よりも先に、身体が織に触れたがる。
肩の曲線、鎖骨の影、胸の上下する呼吸。
どれもが、見ているだけで喉が渇くようだった。
裕介は織の頬に手を添え、指で髪を払う。
そのまま、首筋へ、肩へとゆっくり滑らせる。
触れれば触れるほど、もっと触れたくなる。
愛撫というより、確かめるような、縋るような動きだった。
織は目を閉じ、微かに息を吸う。
その反応が、裕介の胸の奥をさらに揺らす。
「裕介…」
名前を呼ばれただけで、心の底がざわりと震えた。
織に触れていると、どこかにまだ微かな、生きるための感情の残滓があるような錯覚が生まれる。
その錯覚に、溺れたくなる。
裕介は織の身体を抱き寄せ、肌と肌を重ねた。
ただ抱き合うだけなのに、それだけで、世界の輪郭がぼやけていく。
織の温度が、呼吸が、自分をゆっくりと沈めていく。
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裕介は、スマホを見ると、翌日の午前八時くらいだった。
早めに自宅の用事を済ませたい。
横で眠っている織を横目に布団から出た。
手早く着替え、財布とスマホ、キーホルダーをポケットに入れる。
玄関のドアを開けると、朝日がまっすぐ目に差し込んだ。
先日作った合鍵で静かに施錠する。
まだ眠っている織には、「自宅の用事を済ませてくる」とだけLINEを送っておいた。
車を走らせ、自宅へ向かう。
胸の内には、本当に何も湧いてこない。
後ろめたさも、悲しさも、迷いも。
ただ、やるべきことをやりに行くだけ。
そんな感覚だけが、淡々と身体を動かしていた。
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玄関を開けた途端、空気がわずかに揺れた。
誰かが起きて動き始めたばかりの、あの独特の生活の匂いが漂っている。
しかし、温かいはずのその匂いが、裕介にはどこか遠く感じられた。
リビングからは、食器の触れ合う小さな音が聞こえる。
彩が朝食の片づけをしているのだろう。
美の足音も、階段のあたりから微かに響く。
“家族がいる音”がする。
それなのに、胸の奥はまったく動かない。
裕介は靴を脱ぎながら、ふと気づく。
この家の空気は、もう自分の体温を受け入れない。
ただ、生活の残り香だけが漂っている。
リビングに入ると、彩がこちらを見た。
驚きも、喜びも、怒りもない。
ただ、必要な情報を確認するような目だった。
「帰ってきたのね。書類、そこに置いてあるから」
その声は、淡々としていて、湿度がなかった。
長年連れ添った夫婦の会話というより、“役割を伝えるための言葉”に近い。
美はソファに座り、タブレットを見ていた。
裕介に気づくと、軽く会釈だけして、また画面に視線を戻す。
二人とも、そこに“いる”。
けれど、裕介の心には何も触れてこない。
むしろ、
「自分がいなくても、この家は問題なく回る」
という事実だけが、静かに胸に沈んでいく。
テーブルには、彩がまとめた書類が整然と置かれていた。
赤ペンで「保護者記入」と書かれた丸印が、妙に強く目に入る。
家族としての義務だけが、自分にまとわりついてくる。
彩は台所に戻り、美は画面に集中している。
会話はない。
テレビもついていない。
時計の秒針だけが、やけに大きく響く。
裕介はペンを取り、必要な欄を淡々と埋めていく。
手は動くのに、心はどこにも触れない。
ただ、作業をしているだけだった。
書き終えても、何も感じない。
達成感も、虚しさも、後悔も。
ただ、
“ここには自分の居場所がない”
という静かな確信だけが、ゆっくりと沈んでいく。




