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枯淡  作者: 水原伊織


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34/40

34.失ったことにさえ、気づかないまま

彩がそれに気づいたのは、ずっと後になってからだった。


裕介が家に帰らなくなって、空いた椅子が当たり前になって、

「いってらっしゃい」と言う声に自分の感情が乗らなくなって、


ようやく、胸の奥に小さな違和感が芽を出した。


(……あの人のことを、私はどう見ていたんだろう)


思い返してみても、夫としての裕介を“男”として見た記憶はほとんどなかった。


生活を支える人。


家計を任せられる人。


美の父親として、家族の形を保つための存在。


そこに“個人としての裕介”はいなかった。


彩は、ようやくその事実に触れた。


触れた瞬間、胸の奥がひどく冷えた。


裕介がいなくなって寂しいのではない。


寂しさを感じない自分に、初めて薄い恐怖を覚えたのだった。


(私は……何を失ったんだろう)


問いは浮かぶのに、答えはどこにもなかった。


失ったものの輪郭さえ掴めない。


ただ、気づいた時にはもう、その“何か”は戻らない場所へ消えていた。


彩は、静かなリビングで、自分がずっと“役割としての夫”しか見ていなかったことを、ようやく理解した。


そして、その理解は、何の救いにもならなかった。


失ったことにさえ、気づかないままだった。


----


離婚するにも、何もない。


手続きも、話し合いも、理由さえも。


ただ、裕介は帰ってこない。


それでも、仕事にはきちんと行っていた。


給料はこれまで通り彩の口座に入り、彩と美の生活は何ひとつ変わらなかった。


光熱費も、食費も、学費も、滞りなく回っていく。


そう――ただ、自宅にいないだけなのだ。


その“いないだけ”の状態に、彩はいつの間にか慣れてしまっていた。


空いた椅子も、玄関に並ばない靴も、生活の一部として受け入れてしまっていた。


「……お母さん、それ、おかしいよ」


美は、静かにそう言った。


彩のその“慣れ”こそが、この家の異常さをいちばんよく表していた。


美が一番大切と言い切る彩に、美は、気づいてしまった。


――お父さんがいなくなった理由は、私だ。


自分に愛情を注ぐあまり、彩が父を“見なくなった”のだと。


その結果、父は静かに家から離れていったのだと。


父は、美には優しかった。


兄二人と比べても、怒られることなどほとんどなかった。


小さかった頃は、毎晩のように隣で寝てくれて、休みの日には一緒に遊んでくれた。


お絵描きも、よく付き合ってくれた。


娘だから、余計に大切にしてくれたのだと、美は思っていた。


けれど今は、その優しさが胸に刺さった。


父が自分を大切にしてくれた分だけ、母が父を見なくなっていったのだと、美は気づいてしまった。


気づかなければよかったと思うほどに、その事実は静かに重かった。


----


家族の事を考えると、苦しくなり、織のことを考えると、楽しくなる。


どちらがいいかは、誰が考えても同じだろう。


そう開き直り、裕介は、織と過ごしていた。


自宅に帰らなくなり、およそ半年が経過した。


雪にも、あらためて、挨拶にいった。


将来を真剣に考えたいと。


雪は、自分たちで決めたことならと、それ以上、何も言わなかった。


織が家事や料理をやらないなど、問題では無かった。


裕介は、本業が毎日定時で、夕方には織のマンションに帰ってくる。


リビングのテーブルの上の空き缶や、台所の片付けなど、苦ではなかった。


こうやって洗って。


風呂場に毛を残さないで。


汚いよ。


臭いし。


そういう言葉が飛び交うことが無かった。


多少ペットボトルに何か残っていようと、ダイニングに皿が残っていようと、誰も気にしない。


床にティッシュが転がっているのは、気が付けば拾えばいいし、皿など、合間で自分が洗えばいいだけのことなのだ。


それに執筆中の織を、くだらないことで、邪魔したくなかった。


自分が、かつて、そうだったから分かる。


織が自分のタイミングで、いろいろ言ってきてくれれば、それでよかった。


----


今日は土曜日。


午前十一時を少し過ぎたところだった。


ついさっきまで、和室の布団で織と抱き合っていた。


布団から出た織は、毛布を肩にかけたまま、ゆっくりとリビングへ向かう。


そのあと、キーボードを叩く軽い音が、静かな部屋に響き始めた。


裕介もリビングに移り、ソファに身を投げる。


横になったまま、そのタイピングの音を聞くのが、いつの間にか好きになっていた。


沈黙が続く。


けれど、この沈黙ほど心地よいものを、他の誰と味わえただろう。


「裕介、あのさ」


「ん…」


「缶コーヒー飲みたい」


「あいよ」


裕介は冷蔵庫から微糖の缶コーヒーを二本取り出し、織のテーブルにそっと置いた。


「ありがと。もう少しで一段落するから」


「気にしないで、織」


…缶コーヒーなんて、まずくて飲めない。ちゃんと粉から淹れないと——。


彩の声が、遠い残響のように脳裏でこだまする。


裕介はその声を振り払うように、プルタブを開けた。

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