34.失ったことにさえ、気づかないまま
彩がそれに気づいたのは、ずっと後になってからだった。
裕介が家に帰らなくなって、空いた椅子が当たり前になって、
「いってらっしゃい」と言う声に自分の感情が乗らなくなって、
ようやく、胸の奥に小さな違和感が芽を出した。
(……あの人のことを、私はどう見ていたんだろう)
思い返してみても、夫としての裕介を“男”として見た記憶はほとんどなかった。
生活を支える人。
家計を任せられる人。
美の父親として、家族の形を保つための存在。
そこに“個人としての裕介”はいなかった。
彩は、ようやくその事実に触れた。
触れた瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
裕介がいなくなって寂しいのではない。
寂しさを感じない自分に、初めて薄い恐怖を覚えたのだった。
(私は……何を失ったんだろう)
問いは浮かぶのに、答えはどこにもなかった。
失ったものの輪郭さえ掴めない。
ただ、気づいた時にはもう、その“何か”は戻らない場所へ消えていた。
彩は、静かなリビングで、自分がずっと“役割としての夫”しか見ていなかったことを、ようやく理解した。
そして、その理解は、何の救いにもならなかった。
失ったことにさえ、気づかないままだった。
----
離婚するにも、何もない。
手続きも、話し合いも、理由さえも。
ただ、裕介は帰ってこない。
それでも、仕事にはきちんと行っていた。
給料はこれまで通り彩の口座に入り、彩と美の生活は何ひとつ変わらなかった。
光熱費も、食費も、学費も、滞りなく回っていく。
そう――ただ、自宅にいないだけなのだ。
その“いないだけ”の状態に、彩はいつの間にか慣れてしまっていた。
空いた椅子も、玄関に並ばない靴も、生活の一部として受け入れてしまっていた。
「……お母さん、それ、おかしいよ」
美は、静かにそう言った。
彩のその“慣れ”こそが、この家の異常さをいちばんよく表していた。
美が一番大切と言い切る彩に、美は、気づいてしまった。
――お父さんがいなくなった理由は、私だ。
自分に愛情を注ぐあまり、彩が父を“見なくなった”のだと。
その結果、父は静かに家から離れていったのだと。
父は、美には優しかった。
兄二人と比べても、怒られることなどほとんどなかった。
小さかった頃は、毎晩のように隣で寝てくれて、休みの日には一緒に遊んでくれた。
お絵描きも、よく付き合ってくれた。
娘だから、余計に大切にしてくれたのだと、美は思っていた。
けれど今は、その優しさが胸に刺さった。
父が自分を大切にしてくれた分だけ、母が父を見なくなっていったのだと、美は気づいてしまった。
気づかなければよかったと思うほどに、その事実は静かに重かった。
----
家族の事を考えると、苦しくなり、織のことを考えると、楽しくなる。
どちらがいいかは、誰が考えても同じだろう。
そう開き直り、裕介は、織と過ごしていた。
自宅に帰らなくなり、およそ半年が経過した。
雪にも、あらためて、挨拶にいった。
将来を真剣に考えたいと。
雪は、自分たちで決めたことならと、それ以上、何も言わなかった。
織が家事や料理をやらないなど、問題では無かった。
裕介は、本業が毎日定時で、夕方には織のマンションに帰ってくる。
リビングのテーブルの上の空き缶や、台所の片付けなど、苦ではなかった。
こうやって洗って。
風呂場に毛を残さないで。
汚いよ。
臭いし。
そういう言葉が飛び交うことが無かった。
多少ペットボトルに何か残っていようと、ダイニングに皿が残っていようと、誰も気にしない。
床にティッシュが転がっているのは、気が付けば拾えばいいし、皿など、合間で自分が洗えばいいだけのことなのだ。
それに執筆中の織を、くだらないことで、邪魔したくなかった。
自分が、かつて、そうだったから分かる。
織が自分のタイミングで、いろいろ言ってきてくれれば、それでよかった。
----
今日は土曜日。
午前十一時を少し過ぎたところだった。
ついさっきまで、和室の布団で織と抱き合っていた。
布団から出た織は、毛布を肩にかけたまま、ゆっくりとリビングへ向かう。
そのあと、キーボードを叩く軽い音が、静かな部屋に響き始めた。
裕介もリビングに移り、ソファに身を投げる。
横になったまま、そのタイピングの音を聞くのが、いつの間にか好きになっていた。
沈黙が続く。
けれど、この沈黙ほど心地よいものを、他の誰と味わえただろう。
「裕介、あのさ」
「ん…」
「缶コーヒー飲みたい」
「あいよ」
裕介は冷蔵庫から微糖の缶コーヒーを二本取り出し、織のテーブルにそっと置いた。
「ありがと。もう少しで一段落するから」
「気にしないで、織」
…缶コーヒーなんて、まずくて飲めない。ちゃんと粉から淹れないと——。
彩の声が、遠い残響のように脳裏でこだまする。
裕介はその声を振り払うように、プルタブを開けた。




