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枯淡  作者: 水原伊織


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31/40

31.壊れている事さえも気が付かないまま

俺が、一番悪いのかもしれない。


そう思うたびに、胸の奥が鈍く痛む。


でも、彩と抱き合えていれば、こうはならなかった。


あの距離が生まれなければ、あの沈黙が続かなければ、俺は、こんなふうに壊れなかった。


そう自分に言い聞かせるようにして、裕介は、また織の部屋へ向かう。


織は、かつての彩のように、裕介のことについて細かいことを言わない。


髪の毛が乱れてる。


服が汚い。


風呂に毛が落ちてる。


酒臭い。


そんな言葉を、織は一度も口にしなかった。


(もし、結婚でもしたら……織も同じことを言うんだろうか)


ふと、そんな疑問が胸をよぎる。


けれど、すぐにどうでもよくなった。


(多分、もう俺は壊れてるんだ)


そう思った瞬間、胸の奥で何かが静かに折れたような気がした。


----


「言わないよ」


織は、まるで当たり前のことを告げるように言った。


責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ、事実を置くような声だった。


「私の方が、多分、だらしない。だから言わないよ」


その言葉に、裕介は一瞬、呼吸を忘れた。


織は、自分を卑下しているわけではない。


媚びてもいない。


ただ、相手を縛らないために、自分の弱さを先に差し出しているだけだった。


(……なんだよ、それ)


胸の奥が、じわりと熱くなる。


怒りでも、悲しみでもない。


もっと曖昧で、もっと深い感情。


「…織」


名前を呼ぶ声が、少し震えた。


織は、裕介の顔を見て、ふっと小さく笑った。


「だって、裕介は…私に何も言わないでしょう?」


その一言で、裕介は心のどこかが溶けていくのを感じた。


家では、視線が刺さり、沈黙が重く、言葉がすべて責めに聞こえた。


でも織は違う。


織は、裕介の欠けた部分を見ても、そこに何も貼り付けようとしない。


(……俺は、もう壊れてるのかもしれない)


コインパーキングに停めた車の中で、裕介はそう思った。


けれど、壊れている自分を責める気持ちは、もうどこにもなかった。


織の言葉が、その壊れた部分にそっと触れて、痛みを奪っていくようだった。


(織のところに行きたい)


理由なんて、もう必要なかった。


----


織は、裕介の“壊れ方”に気づいていた。


気づかないはずがなかった。


部屋に入ってくるときの表情。


ふとした瞬間に落ちる影。


言葉の端に滲む疲れと諦め。


それらは、誰かに責められて壊れたものではなく、


長い時間をかけて、静かにひびが入っていった心の形だった。


(……私が、こうしたのかもしれない)


織は、そう思った。


けれど、その思いに後悔はなかった。


裕介を不倫に走らせたのは、自分だけのせいではないと、織は知っていた。


裕介の家庭にも、きっと何かがあった。


彩との間に積み重なった沈黙や、触れられなくなった距離や、言葉にできない疲れが。


(あの人は、もう限界だったんだ)


そう思うと、胸の奥に静かな覚悟が生まれた。


罪悪感は、もう消えていた。


後悔もなかった。


織は、裕介の壊れた部分を責める気にはなれなかった。


むしろ、その壊れた部分に触れるたびに、自分の中の何かが静かに決まっていくのを感じた。


(……私は、この人を受け止める)


それは、恋でも、正義でも、倫理でもなかった。


ただ、織自身の選択だった。


裕介が壊れているなら、その壊れた形のまま、そばにいればいい。


織は、そう覚悟していた。

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