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枯淡  作者: 水原伊織


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32/40

32.織のそばにいたいよ

裕介の心は、すでに自宅には無かった。

身体だけが、義務のように、無意識に自宅に戻ってくる。


最初の頃は、「一度帰らなきゃ」と思っていた。


家族に気を遣うような、カモフラージュめいた行動もしていた。


けれど、いつの間にかそれも消えた。


理由さえも聞かれなくなった。


彩は、問いを飲み込み続け、美は、沈黙の中で父の変化を見つめていた。


家の中に、“聞かない”という習慣が根を張っていた。


玄関に向かうと、彩は必ず声をかけてくる。


「いってらっしゃい」


その声は、以前と同じ響きなのに、

どこか遠く、薄くなっていた。


裕介は、靴を履きながら、短く答える。


「いってきます」

それだけ。

彩は、それ以上何も言わない。

裕介も、何も言わない。

扉を閉めると、家の空気が背中から離れていく。


(……もう戻れないんだろうな)


そう思いながら、裕介は車へ向かった。


----


もう織のそばにいたい。


その言葉は、声にならないまま胸の奥に沈んでいた。

けれど、決意というより“帰る場所を思い出した”ような感覚に近かった。


家に向かう足取りは、もう義務のようなものだった。

彩の「いってらっしゃい」も、美の視線も、どこか遠くの出来事のように感じられる。

織の部屋の灯りを思い浮かべると、胸の奥に、かすかな温度が戻ってくる。


(……あそこにいたい)


その思いは、誰にも言えないし、言うつもりもなかった。

ただ、揺るぎなくそこにあった。


扉を閉めるたびに、家の空気が背中から離れていく。

離れるほどに、呼吸が楽になっていく。

もう、戻る場所は決まっていた。


----


それから、何か月かが過ぎた。


相変わらず、裕介の平日は同じだった。

朝、自宅から仕事へ向かい、夕方に戻り、最低限の会話だけを交わして、すぐに織の部屋へ向かう。

金曜日の夜から日曜日の夜までは、完全に姿を見せなかった。


彩も、美も、もう気づいていた。

気づいて、確信して、それでも何も言わなかった。

家の中には、言葉よりも重い沈黙があった。


その沈黙は、最初は薄い膜のようだったのに、いつの間にか、家全体を覆う“習慣”になっていた。


彩は、食卓を整えながら、空いた椅子を見ても表情を変えなくなった。

美は、父の靴が玄関にないことに、もう驚きもしなかった。


「いってらっしゃい」


彩の声は、以前と同じ響きなのに、どこか遠く、淡くなっていた。

その声に、感情を探すことはもうできなかった。

裕介は、靴を履きながら短く答える。


「いってきます」


それだけ。

そのやり取りは、もはや儀式のように形だけ残っていた。

扉が閉まると、家の空気が背中から離れていく。


その感覚に、罪悪感はなかった。

ただ、戻るべき場所が別にあるという事実だけが、静かに胸の奥に沈んでいた。


----


「ずっと私たちが二人でいることが嫌だったのかな?」


美がぽつりと言うと、彩は手を止めた。

けれど、すぐには答えなかった。


「……どうだろうね」


ようやく絞り出した声は、どこか自分に言い聞かせるようだった。


彩は、裕介を“男”として見たことはなかった。


結婚してからずっと、家族として、生活の一部として、そこにいるのが当たり前の存在だった。


今は、美の将来のことばかりが頭にあった。


この子がどう成長していくのか、どんな道を選ぶのか、それを見るのが楽しみで仕方なかった。


その喜びが、いつの間にか家の中心になっていた。


裕介の存在は、気づかないうちに周縁へ追いやられていた。


それが、全ての始まりだった。


けれど、彩も、美も、そのことに気づくことはなかった。

リビングには、テレビの音だけが流れていた。

二人の沈黙は、問いを深めることも、答えを探すこともせず、ただ、そこに落ち着いてしまっていた。

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