32.織のそばにいたいよ
裕介の心は、すでに自宅には無かった。
身体だけが、義務のように、無意識に自宅に戻ってくる。
最初の頃は、「一度帰らなきゃ」と思っていた。
家族に気を遣うような、カモフラージュめいた行動もしていた。
けれど、いつの間にかそれも消えた。
理由さえも聞かれなくなった。
彩は、問いを飲み込み続け、美は、沈黙の中で父の変化を見つめていた。
家の中に、“聞かない”という習慣が根を張っていた。
玄関に向かうと、彩は必ず声をかけてくる。
「いってらっしゃい」
その声は、以前と同じ響きなのに、
どこか遠く、薄くなっていた。
裕介は、靴を履きながら、短く答える。
「いってきます」
それだけ。
彩は、それ以上何も言わない。
裕介も、何も言わない。
扉を閉めると、家の空気が背中から離れていく。
(……もう戻れないんだろうな)
そう思いながら、裕介は車へ向かった。
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もう織のそばにいたい。
その言葉は、声にならないまま胸の奥に沈んでいた。
けれど、決意というより“帰る場所を思い出した”ような感覚に近かった。
家に向かう足取りは、もう義務のようなものだった。
彩の「いってらっしゃい」も、美の視線も、どこか遠くの出来事のように感じられる。
織の部屋の灯りを思い浮かべると、胸の奥に、かすかな温度が戻ってくる。
(……あそこにいたい)
その思いは、誰にも言えないし、言うつもりもなかった。
ただ、揺るぎなくそこにあった。
扉を閉めるたびに、家の空気が背中から離れていく。
離れるほどに、呼吸が楽になっていく。
もう、戻る場所は決まっていた。
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それから、何か月かが過ぎた。
相変わらず、裕介の平日は同じだった。
朝、自宅から仕事へ向かい、夕方に戻り、最低限の会話だけを交わして、すぐに織の部屋へ向かう。
金曜日の夜から日曜日の夜までは、完全に姿を見せなかった。
彩も、美も、もう気づいていた。
気づいて、確信して、それでも何も言わなかった。
家の中には、言葉よりも重い沈黙があった。
その沈黙は、最初は薄い膜のようだったのに、いつの間にか、家全体を覆う“習慣”になっていた。
彩は、食卓を整えながら、空いた椅子を見ても表情を変えなくなった。
美は、父の靴が玄関にないことに、もう驚きもしなかった。
「いってらっしゃい」
彩の声は、以前と同じ響きなのに、どこか遠く、淡くなっていた。
その声に、感情を探すことはもうできなかった。
裕介は、靴を履きながら短く答える。
「いってきます」
それだけ。
そのやり取りは、もはや儀式のように形だけ残っていた。
扉が閉まると、家の空気が背中から離れていく。
その感覚に、罪悪感はなかった。
ただ、戻るべき場所が別にあるという事実だけが、静かに胸の奥に沈んでいた。
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「ずっと私たちが二人でいることが嫌だったのかな?」
美がぽつりと言うと、彩は手を止めた。
けれど、すぐには答えなかった。
「……どうだろうね」
ようやく絞り出した声は、どこか自分に言い聞かせるようだった。
彩は、裕介を“男”として見たことはなかった。
結婚してからずっと、家族として、生活の一部として、そこにいるのが当たり前の存在だった。
今は、美の将来のことばかりが頭にあった。
この子がどう成長していくのか、どんな道を選ぶのか、それを見るのが楽しみで仕方なかった。
その喜びが、いつの間にか家の中心になっていた。
裕介の存在は、気づかないうちに周縁へ追いやられていた。
それが、全ての始まりだった。
けれど、彩も、美も、そのことに気づくことはなかった。
リビングには、テレビの音だけが流れていた。
二人の沈黙は、問いを深めることも、答えを探すこともせず、ただ、そこに落ち着いてしまっていた。




