30.娘が気づいた夜、家族の沈黙が崩れ始めた
裕介は、彩の疑いに気づいていた。
気づかないはずがなかった。
視線の揺れ、言葉の間、沈黙の重さ。
どれも、以前とは違っていた。
けれど——
その違いに向き合う気力は、もう裕介には残っていなかった。
(……今の俺には、織しかいない)
そう思うたびに、胸の奥が静かに決まっていく。
家にいても、心は落ち着かない。
彩の視線も、美の沈黙も、すべてが自分を責めているように感じられた。
だから、家にいたくなかった。
温度の無い家には、いたくなかった。
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いってきます。
いってらっしゃい。
ただいま。
おかえり。
その四つの言葉だけで、一日が終わっていく。
それ以外の会話は、もうどこにもなかった。
彩は、最初こそその沈黙に抗おうとした。
何か話題を探し、声をかけようとした。
けれど、裕介の返事は短く、どこか上の空で、そのたびに彩の胸の奥は、少しずつ冷えていった。
(……どうして、こんなふうになったんだろう)
問いは浮かぶのに、答えはどこにもない。
裕介は、仕事に行き、そして必ず家に戻ってくる。
形式だけは、以前と何も変わらない。
けれど、家の中にいる裕介は、まるで“ここにいない人”のようだった。
食卓に座っていても、テレビを見ていても、風呂から上がってきても、その表情には、どこか別の場所の影が差している。
彩は、その影の正体を知りたくなかった。
知ってしまえば、戻れなくなるとわかっていたから。
(どうしたらいいの……)
胸の奥が、じわりとうずく。
けれど、何もできない。
何をしても、もう届かない気がした。
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平日の夜。
彩が買い物に出ていて、家の中には美と裕介だけだった。
リビングの時計が、静かに秒を刻む。
裕介は、帰宅したばかりで、まだ上着も脱いでいない。
その背中に、美の声が落ちた。
「お父さん。どこに行っているの?」
その瞬間、裕介の動きが止まった。
振り返った顔には、驚きが浮かんでいる。
「……美」
名前を呼ぶ声は、思った以上に弱かった。
美は、父の表情をじっと見つめる。
逃げ道を塞ぐような視線ではない。
ただ、真っ直ぐに、知りたいという気持ちだけがそこにあった。
裕介は、言葉を探すように口を開きかけて、閉じた。
(……訊かれると思っていなかった)
むしろ、そのことに驚いていた。
美は、自分に興味がないと思っていたのだ。
美は、少しだけ息を吸い込んだ。
「最近、家から出てってさ。帰ってくるの遅いし……お母さん、心配してるよ」
その言葉に、裕介の眉がわずかに動いた。
痛みとも、後ろめたさともつかない影が差す。
「……仕事だよ」
ようやく絞り出した言葉は、あまりにも薄く、頼りなかった。
美は、すぐにその言葉を信じられなかった。
けれど、問い詰めることもできない。
「……ほんとに?」
その問いは、責めるものではなく、ただ、確かめたいだけの声だった。
裕介は、美の目を見られなかった。
視線をそらし、上着を脱ぎ、「風呂入ってくる」とだけ言って、廊下へ消えた。
美は、その背中を見送りながら思った。
(……お父さん、嘘ついてる)
やるせなく胸がうずくたびに、運命の輪郭が見えたのは、美も同じだった。
父と母のあいだに流れる沈黙。
食卓に落ちる、言葉にならない重さ。
夜遅くに帰ってくる父の足音。
母が布団の中で息を潜める気配。
そのどれもが、美の胸の奥に小さな痛みを残していった。
(……何かが変わってる)
理由はわからない。
でも、確かに“何か”がずれている。
家の空気が、前より冷たく、薄くなっている。
美は、学校でもその違和感を引きずっていた。
授業中、ふとした瞬間に胸がざわつく。
帰り道、夕焼けを見ながら胸がきゅっと締めつけられる。
(どうして、こんなに不安になるんだろう)
家に帰ると、父の靴がない。
母は台所で黙って夕食を作っている。
その背中が、いつもより小さく見えた。
美は、胸の奥のうずきを押し込めながら、そっと母の横顔を見つめた。
(お母さんも……気づいてるんだ)
でも、誰も言わない。
言ってしまえば、何かが壊れるとわかっているから。
美は、胸の奥に沈む痛みを抱えたまま、静かに息を吸った。
(……お父さん、どこにいるの)
家にいても、家にいない。
目の前にいても、どこか遠い。
その“隔たり”は、美の胸の中にも、確かに広がり始めていた。




