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枯淡  作者: 水原伊織


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30/40

30.娘が気づいた夜、家族の沈黙が崩れ始めた

裕介は、彩の疑いに気づいていた。


気づかないはずがなかった。


視線の揺れ、言葉の間、沈黙の重さ。


どれも、以前とは違っていた。


けれど——


その違いに向き合う気力は、もう裕介には残っていなかった。


(……今の俺には、織しかいない)


そう思うたびに、胸の奥が静かに決まっていく。


家にいても、心は落ち着かない。


彩の視線も、美の沈黙も、すべてが自分を責めているように感じられた。


だから、家にいたくなかった。


温度の無い家には、いたくなかった。


----


いってきます。


いってらっしゃい。


ただいま。


おかえり。


その四つの言葉だけで、一日が終わっていく。


それ以外の会話は、もうどこにもなかった。


彩は、最初こそその沈黙に抗おうとした。


何か話題を探し、声をかけようとした。


けれど、裕介の返事は短く、どこか上の空で、そのたびに彩の胸の奥は、少しずつ冷えていった。


(……どうして、こんなふうになったんだろう)


問いは浮かぶのに、答えはどこにもない。


裕介は、仕事に行き、そして必ず家に戻ってくる。


形式だけは、以前と何も変わらない。


けれど、家の中にいる裕介は、まるで“ここにいない人”のようだった。


食卓に座っていても、テレビを見ていても、風呂から上がってきても、その表情には、どこか別の場所の影が差している。


彩は、その影の正体を知りたくなかった。


知ってしまえば、戻れなくなるとわかっていたから。


(どうしたらいいの……)


胸の奥が、じわりとうずく。


けれど、何もできない。


何をしても、もう届かない気がした。


----


平日の夜。


彩が買い物に出ていて、家の中には美と裕介だけだった。


リビングの時計が、静かに秒を刻む。


裕介は、帰宅したばかりで、まだ上着も脱いでいない。


その背中に、美の声が落ちた。


「お父さん。どこに行っているの?」


その瞬間、裕介の動きが止まった。


振り返った顔には、驚きが浮かんでいる。


「……美」


名前を呼ぶ声は、思った以上に弱かった。


美は、父の表情をじっと見つめる。


逃げ道を塞ぐような視線ではない。


ただ、真っ直ぐに、知りたいという気持ちだけがそこにあった。


裕介は、言葉を探すように口を開きかけて、閉じた。


(……訊かれると思っていなかった)


むしろ、そのことに驚いていた。


美は、自分に興味がないと思っていたのだ。


美は、少しだけ息を吸い込んだ。


「最近、家から出てってさ。帰ってくるの遅いし……お母さん、心配してるよ」


その言葉に、裕介の眉がわずかに動いた。


痛みとも、後ろめたさともつかない影が差す。


「……仕事だよ」


ようやく絞り出した言葉は、あまりにも薄く、頼りなかった。


美は、すぐにその言葉を信じられなかった。


けれど、問い詰めることもできない。


「……ほんとに?」


その問いは、責めるものではなく、ただ、確かめたいだけの声だった。


裕介は、美の目を見られなかった。


視線をそらし、上着を脱ぎ、「風呂入ってくる」とだけ言って、廊下へ消えた。


美は、その背中を見送りながら思った。


(……お父さん、嘘ついてる)


やるせなく胸がうずくたびに、運命の輪郭が見えたのは、美も同じだった。


父と母のあいだに流れる沈黙。


食卓に落ちる、言葉にならない重さ。


夜遅くに帰ってくる父の足音。


母が布団の中で息を潜める気配。


そのどれもが、美の胸の奥に小さな痛みを残していった。


(……何かが変わってる)


理由はわからない。


でも、確かに“何か”がずれている。


家の空気が、前より冷たく、薄くなっている。


美は、学校でもその違和感を引きずっていた。


授業中、ふとした瞬間に胸がざわつく。


帰り道、夕焼けを見ながら胸がきゅっと締めつけられる。


(どうして、こんなに不安になるんだろう)


家に帰ると、父の靴がない。


母は台所で黙って夕食を作っている。


その背中が、いつもより小さく見えた。


美は、胸の奥のうずきを押し込めながら、そっと母の横顔を見つめた。


(お母さんも……気づいてるんだ)


でも、誰も言わない。


言ってしまえば、何かが壊れるとわかっているから。


美は、胸の奥に沈む痛みを抱えたまま、静かに息を吸った。


(……お父さん、どこにいるの)


家にいても、家にいない。


目の前にいても、どこか遠い。


その“隔たり”は、美の胸の中にも、確かに広がり始めていた。

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