29.二つの場所で、同時に壊れ始めた
裕介が、平日まで外に出るようになったのは、ほんの一週間ほど前からだった。
最初は「仕事の付き合い」と言っていた。
次は「ちょっと用事」。
その次は、何も言わずに靴を履いた。
帰ってくるのは、決まって深夜。
日付が変わる頃、玄関の鍵が静かに回る。
彩は、その音で目が覚めるようになっていた。
(……また、今日も)
布団の中で目を閉じたまま、息を潜める。
問いただす勇気はない。
けれど、疑いは日に日に濃くなっていく。
翌朝、裕介は何事もなかったように起きて、仕事に向かう。
寝不足のはずなのに、妙に機嫌がいい日もあった。
その“機嫌のよさ”が、彩には逆に怖かった。
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美も気づいていた。
「お父さん、最近いつ寝てるの?」
朝食の席で、美が言った。
裕介は、すでに仕事に出かけていた。
「さあ?」
美は、ため息をつきながら言う。
「お母さん……やっぱり変だよ」
彩は、ゆっくりと頷いた。
「ええ。変よ。でも……聞いたところで、答えてくれるとは思えないわ」
美は唇を噛む。
(お父さん……何を隠してるの)
疑いは、もう“気のせい”ではなかった。
家の空気そのものが、少しずつ、確実に変わっていく。
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平日も、裕介が来るのは決まって夜の八時を過ぎてからだった。
仕事を終え、家に一度戻っているはずなのに、そのあと必ず織の部屋へ向かってくる。
最初の数日は、織も戸惑っていた。
「こんなに来て大丈夫なの?」
と聞いたこともある。
けれど、裕介はただ「会いたかったから」とだけ言った。
その言葉に、織はもう何も言えなくなった。
(……もう、気にするのはやめよう)
そう思ったのは、三日目の夜だった。
織が何をしていても、どんな生活でも、裕介は一度も口を出したことがなかった。
だから、裕介が来ることを責めることは止めよう。
裕介が来たいなら来ればいい。
来られない日があっても、それも受け入れよう。
織は、そう決めた。
裕介が部屋に入ってくると、ただ、迎え入れる。
「今日も来たんだね」
「うん。来たかったから」
そのやり取りが、いつの間にか二人の“日常”になっていた。
織は、裕介の顔を見るたびに、胸の奥で何かがほどけていくのを感じていた。
(……この人が来たいと思う限り、私は拒まない)
それは依存でも、諦めでもなく、ただ、覚悟に近い静かな受容だった。
裕介が来るたびに、織の中の不安は少しずつ薄れていき、代わりに、言葉にできない温度だけが積み重なっていった。
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明らかに、今までと違う。
彩は、それを“気のせい”として片づけられなくなっていた。
裕介が家を出る時間。
帰ってくる時間。
話し方。
視線の向け方。
食卓での沈黙の質。
どれも、ほんの少しずつ違っている。
けれど、その“少し”が積み重なると、まるで家の中に薄い膜が張られたように感じられた。
裕介は、最近は平日も家を出る。
帰ってくるのは決まって深夜。
玄関の鍵が回る音で、彩は目を覚ますようになった。
布団の中で目を閉じたまま、「おかえり」と声をかけることもできない。
声をかけたら、何かが壊れてしまう気がした。
翌朝、裕介は何事もなかったように仕事へ向かう。
その背中を見送りながら、彩は胸の奥に沈む重さを抱え続けていた。
(……どうして、こんなに遠く感じるんだろう)
同じ家にいるのに、
同じ空間にいるのに、
まるで別々の場所に立っているようだった。
美も気づいている。
けれど、誰も言葉にしない。
言葉にした瞬間、戻れなくなると知っているから。
彩は、キッチンの窓から差し込む朝の光を見つめながら、
胸の奥で静かに思った。
(あの人は……どこにいるんだろう)
家にいても、家にいない。
目の前にいても、どこか遠い。
その“隔たり”は、日ごとに深く、静かに広がっていった。
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やるせなく胸がうずくたびに、彩も、織も、それぞれ、違う場所で同じ“運命の影”を見ていた。
彩は、夕食の支度をしながら、ふとした瞬間に胸の奥がきゅっと締めつけられる。
理由は言えない。
言葉にしたら、すべてが崩れてしまう気がした。
(……どうして、こんなに遠いの)
夫の背中は、家の中にあるのに、もう手を伸ばしても届かない場所にいるようだった。
その距離が、やるせなくて、苦しくて、けれど、問いただす勇気もない。
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織は、夜の静けさの中で、裕介が帰ったあとの布団の温もりに指を触れながら、胸の奥に広がる痛みを押し込めていた。
(……どうして、こんなに欲しくなるんだろう)
会えば会うほど、触れれば触れるほど、離れたくなくなる。
それが、怖い。でも、もう止められない。
裕介の言葉も、腕の重さも、
全部が“未来”の形をして迫ってくる。
彩も、織も、互いの存在を知らない。
会ったこともない。
けれど、胸の奥に生まれる痛みの形だけは、驚くほど似ていた。
彩は、失う予感に胸がうずく。
織は、求める気持ちに胸がうずく。
どちらも、“自分ではどうにもできないもの”に触れたときの痛みだった。
そして皮肉にも、その痛みが、運命の輪郭を静かに浮かび上がらせていく。




