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枯淡  作者: 水原伊織


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29/40

29.二つの場所で、同時に壊れ始めた

裕介が、平日まで外に出るようになったのは、ほんの一週間ほど前からだった。

最初は「仕事の付き合い」と言っていた。

次は「ちょっと用事」。

その次は、何も言わずに靴を履いた。


帰ってくるのは、決まって深夜。

日付が変わる頃、玄関の鍵が静かに回る。

彩は、その音で目が覚めるようになっていた。


(……また、今日も)


布団の中で目を閉じたまま、息を潜める。

問いただす勇気はない。

けれど、疑いは日に日に濃くなっていく。


翌朝、裕介は何事もなかったように起きて、仕事に向かう。

寝不足のはずなのに、妙に機嫌がいい日もあった。

その“機嫌のよさ”が、彩には逆に怖かった。


----


美も気づいていた。


「お父さん、最近いつ寝てるの?」

朝食の席で、美が言った。

裕介は、すでに仕事に出かけていた。


「さあ?」


美は、ため息をつきながら言う。

「お母さん……やっぱり変だよ」

彩は、ゆっくりと頷いた。

「ええ。変よ。でも……聞いたところで、答えてくれるとは思えないわ」

美は唇を噛む。


(お父さん……何を隠してるの)


疑いは、もう“気のせい”ではなかった。

家の空気そのものが、少しずつ、確実に変わっていく。


----


平日も、裕介が来るのは決まって夜の八時を過ぎてからだった。

仕事を終え、家に一度戻っているはずなのに、そのあと必ず織の部屋へ向かってくる。

最初の数日は、織も戸惑っていた。


「こんなに来て大丈夫なの?」


と聞いたこともある。

けれど、裕介はただ「会いたかったから」とだけ言った。


その言葉に、織はもう何も言えなくなった。


(……もう、気にするのはやめよう)


そう思ったのは、三日目の夜だった。


織が何をしていても、どんな生活でも、裕介は一度も口を出したことがなかった。

だから、裕介が来ることを責めることは止めよう。


裕介が来たいなら来ればいい。

来られない日があっても、それも受け入れよう。


織は、そう決めた。


裕介が部屋に入ってくると、ただ、迎え入れる。

「今日も来たんだね」

「うん。来たかったから」


そのやり取りが、いつの間にか二人の“日常”になっていた。

織は、裕介の顔を見るたびに、胸の奥で何かがほどけていくのを感じていた。


(……この人が来たいと思う限り、私は拒まない)


それは依存でも、諦めでもなく、ただ、覚悟に近い静かな受容だった。

裕介が来るたびに、織の中の不安は少しずつ薄れていき、代わりに、言葉にできない温度だけが積み重なっていった。


----


明らかに、今までと違う。

彩は、それを“気のせい”として片づけられなくなっていた。


裕介が家を出る時間。


帰ってくる時間。


話し方。


視線の向け方。


食卓での沈黙の質。


どれも、ほんの少しずつ違っている。

けれど、その“少し”が積み重なると、まるで家の中に薄い膜が張られたように感じられた。

裕介は、最近は平日も家を出る。

帰ってくるのは決まって深夜。


玄関の鍵が回る音で、彩は目を覚ますようになった。

布団の中で目を閉じたまま、「おかえり」と声をかけることもできない。

声をかけたら、何かが壊れてしまう気がした。


翌朝、裕介は何事もなかったように仕事へ向かう。

その背中を見送りながら、彩は胸の奥に沈む重さを抱え続けていた。


(……どうして、こんなに遠く感じるんだろう)


同じ家にいるのに、

同じ空間にいるのに、

まるで別々の場所に立っているようだった。


美も気づいている。

けれど、誰も言葉にしない。

言葉にした瞬間、戻れなくなると知っているから。

彩は、キッチンの窓から差し込む朝の光を見つめながら、

胸の奥で静かに思った。


(あの人は……どこにいるんだろう)


家にいても、家にいない。

目の前にいても、どこか遠い。

その“隔たり”は、日ごとに深く、静かに広がっていった。


----


やるせなく胸がうずくたびに、彩も、織も、それぞれ、違う場所で同じ“運命の影”を見ていた。


彩は、夕食の支度をしながら、ふとした瞬間に胸の奥がきゅっと締めつけられる。

理由は言えない。

言葉にしたら、すべてが崩れてしまう気がした。


(……どうして、こんなに遠いの)


夫の背中は、家の中にあるのに、もう手を伸ばしても届かない場所にいるようだった。

その距離が、やるせなくて、苦しくて、けれど、問いただす勇気もない。


----


織は、夜の静けさの中で、裕介が帰ったあとの布団の温もりに指を触れながら、胸の奥に広がる痛みを押し込めていた。


(……どうして、こんなに欲しくなるんだろう)


会えば会うほど、触れれば触れるほど、離れたくなくなる。

それが、怖い。でも、もう止められない。


裕介の言葉も、腕の重さも、

全部が“未来”の形をして迫ってくる。


彩も、織も、互いの存在を知らない。

会ったこともない。

けれど、胸の奥に生まれる痛みの形だけは、驚くほど似ていた。

彩は、失う予感に胸がうずく。

織は、求める気持ちに胸がうずく。

どちらも、“自分ではどうにもできないもの”に触れたときの痛みだった。

そして皮肉にも、その痛みが、運命の輪郭を静かに浮かび上がらせていく。

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