28.離れたくないと言った夜、家では疑いが芽生えていた
裕介の腕に抱かれたまま、織はしばらく何も言わなかった。
ただ、胸の奥でゆっくりと何かが形を変えていくのを感じていた。
やがて、織は小さく息を吸い、裕介の肩に額を寄せたまま、静かに言った。
「……ねえ、裕介」
「ん?」
「私ね…もう、怖くないの」
裕介は、織の言葉の意味を測りかねて、そっと顔を上げる。
織は、まっすぐに裕介を見ていた。
その目は、揺れているのに、どこか決意のような光を宿していた。
「前はね……いろんなことが不安だったの。自分の身体のことも、未来のことも、全部」
裕介は黙って聞いている。
「生理痛がひどくて、薬飲んでたの」
「そうなんだ」
「飲んでるうちに、気がつくと生理は来なくなっていたのよ」
その一言に、裕介の呼吸がわずかに乱れた。
織は続ける。
「だから、別にいいんだよ、裕介」
言葉を探すように、織は裕介の胸に指を触れた。
「…裕介の、したいようにして」
織は、そう言って、そっと裕介の手を握った。
裕介は、息を飲んだ。
織は、微笑んだ。
どこか寂しげで、どこか覚悟を含んだ微笑みだった。
「だって…裕介のこと、ほんとうに好きだから」
その言葉は、静かに、しかし確かに裕介の胸に落ちた。
「それに……裕介も好きって言ってくれたから」
織は、胸の前で裕介のシャツをそっとつまんだ。
その仕草は、迷いと確信のあいだで揺れているようだった。
「織……」
裕介が名前を呼ぶと、織はゆっくりと顔を上げた。
その目は、涙ではなく、覚悟の光を帯びていた。
「私も……大好き」
その言葉は、囁きなのに、胸の奥に深く落ちていく。
織は、裕介の胸に額を寄せたまま、震える声で続けた。
「裕介……もう、離れたくない」
その一言に、裕介の呼吸が止まる。
織の指先が、そっと裕介の背中をつかんだ。
強くではなく、でも確かに“つなぎとめる”ように。
「あなたといると……怖いことも、不安も、全部どうでもよくなるの。
だから……離れたくないの。ほんとうに」
裕介は、織の肩を抱き寄せた。
その抱きしめ方は、欲でも衝動でもなく、
まるで“答えを探すような”静かな強さだった。
織は、裕介の胸の中で目を閉じる。
「……どうしたらいいのかな、私たち」
その問いは、責めるでも、求めるでもなく、ただ、二人の未来をそっと手のひらに乗せるような声だった。
和室の静けさの中で、二人の呼吸だけが、ゆっくりと重なっていく。
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裕介が再び外に出るようになったのは、ほんの数日前からだった。
理由は言わない。
行き先も言わない。
ただ、「ちょっと出てくる」とだけ告げて、玄関の扉を閉める。
その“ちょっと”が、以前よりも長くなっていることに、彩は気づいていた。
夕方、台所で夕食の準備をしていると、美がリビングのソファから声をかけてきた。
「また出かけたの?お父さんは」
「……うん。さっき」
彩は包丁を止めずに答えた。
けれど、その声はどこか硬かった。
美は、テレビを消して立ち上がる。
キッチンに近づきながら、低い声で言った。
「最近、多くない?」
彩は、ほんの一瞬だけ手を止めた。
その沈黙が、美には十分な答えだった。
「……そうね。多いかもしれない」
美は、眉を寄せたまま、母の横顔を見つめる。
「前はさ、毎週末だったけど……最近は、平日も出てるよね」
「……そうね」
彩は、淡々と返す。
けれど、胸の奥では別の感情が渦巻いていた。
(また、始まったの……?)
問いかけは、夫に向けたものなのか、自分に向けたものなのか、彩にもわからない。
美は、さらに踏み込むように言った。
「お母さん、何か知ってる?」
彩は、包丁を置き、ゆっくりと娘のほうを向いた。
その目は、強さと弱さが入り混じっていた。
「……知らない。聞いてないの」
美は、息を飲んだ。
「聞かないの?」
「聞けないのよ」
その言葉は、静かで、どこか痛みを含んでいた。
美は、母の表情を見て、胸が締めつけられるような感覚に襲われた。
(お母さん……気づいてるんだ)
気づいているのに、触れられない。
触れたら壊れてしまうものがあると、母は知っている。
美は、視線を落とした。
「……お父さん、変だよね」
「ええ。変よ。今まで、こんなことは無かった」
彩は、はっきりと言った。
その言葉が、家の空気をさらに重くする。
二人の間に沈黙が落ちる。
その沈黙は、以前よりも深く、冷たかった。
階段の上から、裕介の部屋のドアが閉まる音が微かに聞こえた。
その音が、家の中の空気をさらに薄くしていく。
美は、母の横顔を見つめながら思った。
(お父さん……何を隠してるの)
彩は、胸の奥に沈む不安を押し込めながら、
ただ静かに夕食の準備に戻った。
家族の間に、言葉にできない“疑い”が、ゆっくりと根を張り始めていた。




