27.優しすぎる夫に、家の空気がざわついた朝
翌朝。
裕介は、いつもの土曜日より早く起きていた。
キッチンに立つ彩は、背後の気配に気づいて振り返る。
「……おはよう」
裕介は、どこかぎこちない笑顔を浮かべていた。
「おはよう。……コーヒー、淹れようか?」
彩は、一瞬だけ動きを止めた。
(……どうしたの、急に)
裕介が朝から自分でコーヒーを淹れるなんて、ほとんどなかった。
それどころか、こんなふうに“気を遣うような声”を出すことも珍しい。
「いいよ、私がやるから」
「いや……今日は、俺がやるよ」
裕介は、マグカップを二つ取り出し、慣れない手つきでコーヒーを淹れ始めた。
その背中を見ながら、彩は胸の奥に小さなざわつきを覚える。
(……何か、あった?)
問いかけたいのに、言葉が出ない。
聞いたところで、答えてくれるとも思えない。
階段を降りてきた美が、その空気をすぐに察した。
「……おはよう」
美は、キッチンに立つ父の姿を見て、眉をひそめる。
「どうしたの、お父さん。なんか……早いね」
裕介は、振り返って笑った。
「たまには、な」
その笑顔が、逆に不自然だった。
美は、母の横顔をちらりと見る。
彩は、コーヒーの香りを吸い込みながら、どこか落ち着かない表情をしている。
(……やっぱり、何かあった)
美は確信した。
裕介は、二人の前にコーヒーを置いた。
「いつもありがとうな。……彩も、美も」
その言葉に、彩は目を瞬かせた。
美は、マグカップを持つ手を止めた。
「……どうしたの、お父さん。なんか変だよ」
美が率直に言うと、裕介は少しだけ笑って、視線をそらした。
「変じゃないよ。ただ……感謝してるだけだ」
その言い方が、余計に不安を煽った。
彩は、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
(……まるで、何かを“埋め合わせよう”としているみたい)
裕介は、家族に優しくしようとしている。
でも、その優しさはどこか“後ろめたさ”の匂いがした。
美は、父の顔をじっと見つめた。
「……お父さん、何か隠してるでしょ」
裕介は、返事をしなかった。
否定もしない。
ただ、コーヒーを一口飲んで、静かに目を伏せた。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
家の空気は、昨日よりもさらに薄く、張りつめていた。
三人のあいだに、言葉にできない“揺れ”が広がっていく。
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コーヒーを飲み終えると、裕介はマグカップを静かに流しに置き、また自室へ戻っていった。
階段を上がる足音は、妙に軽く、妙に急いでいるようにも聞こえた。
彩は、その背中を目で追いながら、胸の奥に小さな違和感が沈んでいくのを感じた。
(……どうしたの、あの人)
優しい。
優しすぎる。
まるで、何かを埋め合わせようとしているみたいに。
美は、父の姿が見えなくなると、ゆっくりと母のほうを向いた。
「……ねえ、お母さん」
「なに?」
「お父さん、なんか変じゃない?」
彩は、返事をする前に、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
その沈黙が、美には答えに見えた。
「……そうね。ちょっと、変かもしれない」
彩は、そう言いながらも、声の奥に不安を隠しきれなかった。
美は、テーブルの上のマグカップを見つめる。
父が淹れたコーヒー。
父が残した優しさ。
それが、逆に胸をざわつかせる。
「昨日も遅かったよね」
美が言うと、彩は小さく頷いた。
「うん。……久しぶりに」
「どこ行ってたの?」
「……さあ。聞いてない」
その言葉に、美は眉を寄せた。
(聞いてない……?)
母が“聞かない”のは、聞けないからだ。
聞いたら、何かが壊れる気がして。
美は、ゆっくりと息を吸った。
「……お母さん、もしかして……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
彩は、娘の視線を受け止めながら、静かに首を振った。
「まだ、何もわからないわ」
その声は、強がりでも、諦めでもなかった。
ただ、事実を言っているだけ。
けれど、二人の間に落ちた沈黙は、昨日よりも重かった。
階段の上から、裕介が椅子を引く音が微かに聞こえる。
その音が、家の中の空気をさらに薄くしていく。
彩も美も、確信はない。
けれど、
“何かが始まってしまった”
という予感だけが、静かに胸に広がっていた。




