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枯淡  作者: 水原伊織


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26/40

26.家にいるのに、どこにもいない夫

その夜、彩は珍しくリビングに灯りをつけたまま、ひとりで起きていた。

テレビはついているが、音量はほとんど聞こえない。

画面の光だけが、薄く部屋を照らしている。

時計は、もうすぐ日付が変わる時刻を指していた。


(……遅い)


そう思った瞬間、胸の奥に小さな波紋が広がる。

理由のない不安。

説明できないざわつき。

裕介が出かけること自体は、今まで何度もあった。


けれど、今日は違う。

“行かなくなったはずの人”が、また外に出ている。

その事実が、彩の中で妙に重かった。


階段の上から、美の部屋の明かりが漏れている。

娘はまだ起きているのだろう。

けれど、声をかける気にはなれなかった。


(……何を考えてるんだろう、あの人)


問いかけは、夫に向けたものなのか、自分に向けたものなのか、彩にもわからない。


玄関の鍵が回る音がしたのは、それからしばらくしてからだった。

彩は、反射的に背筋を伸ばした。


けれど、立ち上がることはしない。

ただ、ソファに座ったまま、玄関の気配を待つ。


扉が開き、ゆっくりと閉まる音。

靴を脱ぐ気配。

ため息のような、重い呼吸。

裕介がリビングの入り口に立った。


「……起きてたのか」


その声は、どこか疲れていた。

彩は、テレビのリモコンを手に取り、画面を消した。


「うん。なんとなく」


裕介は、少しだけ目を伏せた。

その仕草が、彩の胸にまた小さな波紋を落とす。


「遅かったね」

問いではない。

責めてもいない。

ただの事実。

けれど、裕介は一瞬だけ言葉に詰まった。


「……ああ。ちょっと、飲んでた」


彩は頷いた。

それ以上、何も聞かない。

けれど、聞かない沈黙ほど、重いものはない。


裕介は、リビングに入ってこないまま、廊下で立ち尽くしていた。

その距離が、今までより遠く感じられる。


「……先に寝るよ」


そう言って、裕介は階段を上がっていく。

足音が二階に消えていくまで、彩は動けなかった。


(……何があったの?)


声に出さずに呟く。

答えは返ってこない。

けれど、家の空気だけが、確かに変わっていた。

彩は、消えたテレビの黒い画面に映る自分の顔を見つめた。

そこにあるのは、不安でも怒りでもなく、ただ、静かに揺れる影だった。


----


YouTubeの画面が、部屋の薄暗がりを青く照らしていた。

流れている動画の内容は、もう頭に入っていない。

ただ、音だけが空気を埋めている。

裕介は、椅子にもたれながら、ぼんやりと天井を見上げた。


(今の生活を捨ててまで、織と一緒になれるのか)


その問いは、何度も胸の奥で反芻される。

けれど、答えは出ない。

出せるはずもない。


(……今の生活って、何だ)


彩と美がいる家。

二十年以上続いた日常。

義務と責任で形作られた“生活”。


(俺は、生きているのか、死んでいるのか)


その言葉が、ふっと胸の奥に落ちた。

自分でも驚くほど自然に。

家では、呼吸はしている。

食事もする。

会話も、最低限はある。

けれど、心が動く瞬間がどれだけあっただろう。


(でも……織のところにいるときと、何が違うんだ)


織の部屋で過ごした時間を思い出す。

笑った顔。

黙ってコーヒーを飲む横顔。

ふとした仕草。

名前を呼ばれたときの胸のざわつき。

あの時間は、確かに“生きている”と感じた。

それは、欲とか恋とか、そんな単純なものではなくて、

もっと根の深いところで、自分が動き出す感覚だった。


(……俺は、どっちにいるときのほうが“俺”なんだろう)


YouTubeの動画が次のものに切り替わる。

画面の光が揺れ、裕介の影が壁に伸びる。


(織と一緒になる……?)


現実的ではない。

そんなことはわかっている。

織自身が言った。

「私と一緒に生活ができるわけないでしょう?」

その言葉は、拒絶ではなく、現実だった。


(……じゃあ、俺は何を望んでるんだ)


織を失いたくない。

でも、家庭を壊す覚悟もない。

どちらも手放せないまま、ただ揺れている。


(……最低だな)


そう思っても、胸の奥の痛みは消えない。

YouTubeの音が、遠くで揺れている。


歌のフレーズが耳に残った。

揺れて、揺れて、どこにも着地できない心——

まるで今の自分そのものだ。


裕介は、ゆっくりと目を閉じた。

暗闇の中で浮かぶのは、織の声だった。

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