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枯淡  作者: 水原伊織


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25/40

25.雪に全部見抜かれて、俺は泣いた

織のところに行かなくなって、しばらく経った金曜日の夜。

裕介は、ふと思い立ったようにスナック雪へ足を向けた。


「いらっしゃいませ……あれ?」


扉を開けると、店内はまだ静まり返っていた。

時計を見ると午後六時。

開店したばかりなのだろう。スタッフの姿もない。

カウンターの奥から、雪が顔を出した。


「清水さん、でしたよね?」

「……はい」


裕介は、少しだけ肩をすくめるようにして答えた。

久しぶりのはずなのに、雪の声は以前と変わらず落ち着いている。

その落ち着きが、逆に胸の奥をざわつかせた。


「お久しぶりですね」


その言い方は、責めるでもなく、歓迎するでもなく、ただ“状況を把握している人間”の声だった。

裕介は、曖昧に笑って席に座る。

雪はグラスを拭きながら、ふっと視線を上げた。


雪はグラスを拭く手を止め、ふっと視線だけを裕介に向けた。


「……織と、会ってないんでしょ?」


その言い方は、問いというより“確認”に近かった。

裕介の胸の奥が、わずかにざわつく。


「……どうして、そう思うんですか」


雪は肩をすくめるように、淡々と答えた。


「簡単ですよ。あの子、あなたの話をしなくなったから」


裕介は、言葉を失う。

雪は続ける。


「織ってね、興味のない人の話は一切しない子なんです。

でも、あなたのことは…ここに来るたびに、何かしら言ってましたよ」

拭いていたグラスを棚に戻しながら、雪は少しだけ笑った。


裕介は、視線を落とした。

雪は、その沈黙の意味を読み取るように、ゆっくりと息をつく。


「でも、あなたが来なくなってからは、ぱったり。まるで、最初からそんな人いなかったみたいに」


その言葉は、静かに、しかし確実に胸に刺さった。


「……あの子、そういうところだけは器用なんですよ。

切り替えるのが早いというか、諦めるのが上手いというか」

雪は、カウンターに両手をつき、少しだけ前に身を乗り出した。


「だからこそ、逆にわかるんです。

本当は、まだ諦めきれてないって」

裕介は、息を飲んだ。

雪の目は、まるで心の奥を覗き込むように静かだった。


裕介は、しばらく黙っていた。

雪は、その沈黙の重さを測るように、ただグラスを並べている。

やがて、裕介は小さく息を吐いた。


「……実は、俺……隠してたことがあるんです」


雪の手が止まる。

けれど、顔は上げない。

“続けていい”という沈黙だった。


「俺……家庭があるんです」


雪は、ようやく顔を上げた。

驚いたような表情ではなかった。

むしろ、どこか納得したような、静かな目だった。


「……そうでしょうね」

「え?」

「最初に会ったときから、なんとなく。

あなた、どこか“帰る場所が別にある人”の匂いがしたから」


裕介は、言葉を失う。

雪は、淡々と続けた。


「で? それだけじゃないんでしょう?」


裕介は、喉が詰まるような感覚を覚えた。

雪の声は優しいのに、逃げ道を塞ぐような確かさがあった。


「……織に、ひどいことをしました」


雪は、目を細める。


「ひどいこと?」


裕介は、言葉を選びながら、しかし逃げずに言った。


「……あの子が、重く受け止めるようなことを……俺が、してしまったんです」


雪は、しばらく裕介を見つめていた。

その視線は、責めるでもなく、同情するでもなく、

ただ“事実を受け止める大人”の目だった。

「……あの子、何か言ってました?」


裕介は、ゆっくりと頷いた。

「……“もしそうなったら、あなたはどうするの”って。

“私と一緒に暮らせるわけないでしょう”って」


雪は、深く息を吐いた。

その吐息には、驚きよりも、どこか痛みのようなものが混ざっていた。


「……あの子がそんなこと言うなんてね」

「……すみません」


裕介が頭を下げると、雪は首を横に振った。


「謝る相手は、私じゃないでしょう」

その言葉は、静かで、しかし鋭かった。


「でもね、清水さん」

雪は、カウンター越しに少しだけ身を乗り出した。

「織は、あなたを責めませんよ。あの子は、自分の選んだことを人のせいにしない子ですから」


裕介は、胸が締めつけられるような感覚に襲われた。

雪は続ける。

「ただ……あの子が“本気で傷つく前に”、あなたがどうするか。

それだけは、ちゃんと考えてあげてください」

その声は、母親としての優しさと、夜の世界で生きてきた女の厳しさが混ざっていた。


裕介は、そこまで言うと、もう言葉を続けられなかった。

胸の奥に溜め込んでいたものが、堰を切ったように込み上げてくる。


「……うう……」


声にならない声が漏れた。

裕介は顔を伏せ、肩を震わせた。


雪は、驚いたように目を瞬かせたが、すぐに表情を和らげた。

何も言わず、そっとおしぼりを差し出す。


慰めるでもなく、責めるでもなく。

ただ、そこにいる。


裕介は、おしぼりを受け取りながら、涙を拭うこともできずにいた。

雪は、静かにカウンターの向こうへ視線を戻す。


「……泣けるうちは、まだ大丈夫ですよ」


それは励ましではなく、事実を告げるような声だった。

裕介は、さらに涙がこぼれそうになるのを感じた。


店内は、開店直後の静けさのまま。

時計の秒針だけが、淡々と時間を刻んでいる。

その音が、やけに大きく響いていた。


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