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枯淡  作者: 水原伊織


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24/40

24.出かけなくなった夫と、胸に残るあの言葉

彩は、不思議に思っていた。


なぜ、急に出かけなくなったのか。


つい最近まで、毎週のように週末は外に出ていたのに、ぱたりと止まった。

理由を聞こうと思えば聞ける。

けれど、彩はそれをしなかった。


夫婦になって二十年以上、裕介が“言いたくないこと”を無理に聞き出しても、結局はお互いに疲れるだけだと知っている。

ただ、気にならないわけではなかった。

夕方、台所で洗い物をしながら、彩はふと手を止める。

水の音だけが流れている。

家の中が、以前より静かだと気づいたのは、いつからだっただろう。


(……あの人、最近、夜も早い)


以前は、帰宅してもどこか落ち着かないような空気があった。

風呂に入って、食事をして、テレビをつけて、それでもどこか“ここにいない”ような気配があった。

それが、今は違う。

家にいる時間が増えた。

けれど、増えたからといって、会話が増えたわけでもない。

むしろ、静かさだけが増した。


(……何かあったのかな)


心配、というより、違和感に近い。

夫婦としての距離が、少しだけずれたような感覚。

リビングのテーブルには、裕介のスマホが置かれている。

画面は伏せられたまま。

別に珍しいことではない。

けれど、彩はその“伏せられたまま”に、なぜか目が止まった。


(見ようと思えば、見られるけど……)


そんなことをする自分ではない。

そう思って、視線をそらす。


そのとき、二階から足音がした。

裕介が自室から降りてくる音だ。

彩は、何気ない声で言った。


「今日は、出かけないの?」


裕介は、階段の途中で少しだけ動きを止めた。

ほんの一瞬のことだったが、彩にはそれが妙に引っかかった。


「……うん。別に、用事ないし」


それだけ言って、また階段を降りてくる。

彩は、洗い物に戻りながら、胸の奥に小さな波紋が広がるのを感じていた。


(用事がない、ね……)


今まで、毎週のように“あった”用事が、急になくなる。

その変化が、どうしても気になってしまう。

けれど、問いただすほどの勇気も、理由もない。

ただ、静かに、家の空気だけが変わっていく。

彩は、濡れた手をタオルで拭きながら、

自分でも説明できない不安が、じわりと胸に残るのを感じていた。


----


織に言われた言葉が、裕介の胸の奥で何度も反芻されていた。


「もし出来ちゃったらさ。本気で、私との子どもを育てるつもりがあるの?」

「……私と、一緒に生活ができるわけないでしょう?」


その二つの言葉は、まるで別々の方向から同時に胸を刺してくるようだった。

育てるつもりがあるのか。

一緒に生活なんてできないでしょう。

どちらも正しい。

どちらも嘘ではない。

そして、どちらも逃げられない。


裕介は、あの日以来、織に連絡も取れずにいた。

当然、織の部屋にも行っていない。

家の中は静かで、彩はリビングに美といる。

自室のPCの前で静かに座っていた。


この静けさが、今はやけに重く感じられる。


(……俺は、何をしてるんだろうな)


織の言葉は、責めているわけでも、試しているわけでもなかった。

ただ、事実を置かれただけだ。

それなのに、胸の奥がざわつく。


「育てるつもりがあるの?」


その問いに、即答できなかった自分がいる。

答えられなかったのは、覚悟がないからか。

それとも、覚悟を持ってしまったら、戻れなくなるからか。


(……織となら、って思ったのは本当だ)


あのとき言った言葉は、勢いでも嘘でもなかった。

むしろ、言葉にした瞬間、自分でも驚くほど自然に出てきた。

けれど、織の「無理よ」という一言が、現実を突きつける。


生活。

家族。

責任。

名前。

未来。


どれも、今の自分には二つずつ存在してしまう。


(……俺が望んでこうなったわけじゃない、なんて言い訳だよな)


織の顔が浮かぶ。

少し怯えたような、でもどこか覚悟したような目。

(……困るのは、俺のほうだよ)

そう思いながらも、織の言葉に救われた自分もいた。

本気になってくれるかもしれない、という淡い期待。

そんなものを抱いてしまった自分が、一番厄介だ。


裕介は、深く息を吐いた。

彩の足音が階段から聞こえた気がして、思わず背筋が伸びる。

何もしていないのに、後ろめたさだけが身体のどこかに残っている。


(……どうするんだよ、俺)


答えはまだ出ない。

出せるはずもない。

ただ、織の言葉だけが、静かに胸の奥で響き続けていた。

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