24.出かけなくなった夫と、胸に残るあの言葉
彩は、不思議に思っていた。
なぜ、急に出かけなくなったのか。
つい最近まで、毎週のように週末は外に出ていたのに、ぱたりと止まった。
理由を聞こうと思えば聞ける。
けれど、彩はそれをしなかった。
夫婦になって二十年以上、裕介が“言いたくないこと”を無理に聞き出しても、結局はお互いに疲れるだけだと知っている。
ただ、気にならないわけではなかった。
夕方、台所で洗い物をしながら、彩はふと手を止める。
水の音だけが流れている。
家の中が、以前より静かだと気づいたのは、いつからだっただろう。
(……あの人、最近、夜も早い)
以前は、帰宅してもどこか落ち着かないような空気があった。
風呂に入って、食事をして、テレビをつけて、それでもどこか“ここにいない”ような気配があった。
それが、今は違う。
家にいる時間が増えた。
けれど、増えたからといって、会話が増えたわけでもない。
むしろ、静かさだけが増した。
(……何かあったのかな)
心配、というより、違和感に近い。
夫婦としての距離が、少しだけずれたような感覚。
リビングのテーブルには、裕介のスマホが置かれている。
画面は伏せられたまま。
別に珍しいことではない。
けれど、彩はその“伏せられたまま”に、なぜか目が止まった。
(見ようと思えば、見られるけど……)
そんなことをする自分ではない。
そう思って、視線をそらす。
そのとき、二階から足音がした。
裕介が自室から降りてくる音だ。
彩は、何気ない声で言った。
「今日は、出かけないの?」
裕介は、階段の途中で少しだけ動きを止めた。
ほんの一瞬のことだったが、彩にはそれが妙に引っかかった。
「……うん。別に、用事ないし」
それだけ言って、また階段を降りてくる。
彩は、洗い物に戻りながら、胸の奥に小さな波紋が広がるのを感じていた。
(用事がない、ね……)
今まで、毎週のように“あった”用事が、急になくなる。
その変化が、どうしても気になってしまう。
けれど、問いただすほどの勇気も、理由もない。
ただ、静かに、家の空気だけが変わっていく。
彩は、濡れた手をタオルで拭きながら、
自分でも説明できない不安が、じわりと胸に残るのを感じていた。
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織に言われた言葉が、裕介の胸の奥で何度も反芻されていた。
「もし出来ちゃったらさ。本気で、私との子どもを育てるつもりがあるの?」
「……私と、一緒に生活ができるわけないでしょう?」
その二つの言葉は、まるで別々の方向から同時に胸を刺してくるようだった。
育てるつもりがあるのか。
一緒に生活なんてできないでしょう。
どちらも正しい。
どちらも嘘ではない。
そして、どちらも逃げられない。
裕介は、あの日以来、織に連絡も取れずにいた。
当然、織の部屋にも行っていない。
家の中は静かで、彩はリビングに美といる。
自室のPCの前で静かに座っていた。
この静けさが、今はやけに重く感じられる。
(……俺は、何をしてるんだろうな)
織の言葉は、責めているわけでも、試しているわけでもなかった。
ただ、事実を置かれただけだ。
それなのに、胸の奥がざわつく。
「育てるつもりがあるの?」
その問いに、即答できなかった自分がいる。
答えられなかったのは、覚悟がないからか。
それとも、覚悟を持ってしまったら、戻れなくなるからか。
(……織となら、って思ったのは本当だ)
あのとき言った言葉は、勢いでも嘘でもなかった。
むしろ、言葉にした瞬間、自分でも驚くほど自然に出てきた。
けれど、織の「無理よ」という一言が、現実を突きつける。
生活。
家族。
責任。
名前。
未来。
どれも、今の自分には二つずつ存在してしまう。
(……俺が望んでこうなったわけじゃない、なんて言い訳だよな)
織の顔が浮かぶ。
少し怯えたような、でもどこか覚悟したような目。
(……困るのは、俺のほうだよ)
そう思いながらも、織の言葉に救われた自分もいた。
本気になってくれるかもしれない、という淡い期待。
そんなものを抱いてしまった自分が、一番厄介だ。
裕介は、深く息を吐いた。
彩の足音が階段から聞こえた気がして、思わず背筋が伸びる。
何もしていないのに、後ろめたさだけが身体のどこかに残っている。
(……どうするんだよ、俺)
答えはまだ出ない。
出せるはずもない。
ただ、織の言葉だけが、静かに胸の奥で響き続けていた。




