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枯淡  作者: 水原伊織


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20/40

20.壊れているのか、もう壊れていたのか

裕介は、スマホを見ると、午前十一時だった。

今日は、土曜日で、当然会社は休み。


このまま織と布団でまどろんでいたいのはやまやまだが、いつも一度自宅に戻る。

着替えをしたいのと、家の用事に付き合う必要があるかもしれないのだ。


友達の家で飲んでいる。

まるっきり嘘ではなかった。

裕介はそれが、男か女かとは言わないし、彩も聞いてはこない。


名残を惜しむように、織の身体を一通り貪ると、裕介は布団から出た。


----


裕介が部屋を出ていき、玄関の鍵が静かに閉まる音がした。


その音を聞き届けてから、織はゆっくりと立ち上がり、バスルームへ向かう。

鏡の前に立つと、太ももに残った“昨夜の名残り”が、薄く乾いて白くなっているのが目に入った。


触れた瞬間、胸の奥がわずかに熱くなる。


——ああ、本当に、あのまま受け止めたんだ。


そう思うと、昨夜の裕介の息遣いや、自分の中で揺れた気持ちが、ふっと蘇ってくる。

織は、軽く息を吐き、シャワーの蛇口をひねった。

温かい水が流れ落ちる音が、静かな部屋に広がっていく。


シャワーを浴びながら、織はふと目を閉じた。

昨夜のことが、ゆっくりと胸の奥に蘇ってくる。


裕介が、あの瞬間に迷っていなかったこと。

自分を抱き寄せる腕の強さも、息の乱れも、どこか“覚悟”のようなものを帯びていた。


——リスクを考えていないはずがない。


もし自分が妊娠したら、裕介の家庭は確実に揺らぐ。

奥さんの生活も、きっと壊れてしまう。

それでも、裕介はあのまま離れなかった。


織は、シャワーの水音の中で、胸の奥に沈む複雑な感情を抱えたまま、しばらく動けずにいた。


嬉しいわけでも、悲しいわけでもない。

ただ、重くて、温かくて、どうしようもない気持ちが、身体のどこかに残っていた。


やるせなく胸が疼くたびに、運命の輪郭が見えるような気がした。


----


自宅に帰ってきた裕介は、靴を脱ぐなり、「ちょっとシャワー浴びてくる」と言って浴室へ向かった。


浴室の扉が閉まる音を聞き届けてから、

彩は洗濯かごに入っている裕介の着替えを取り出し、

いつものように洗濯機へ放り込む。


そのとき、ふとした違和感が鼻先をかすめた。

——匂い。

一瞬だけ手が止まる。


だが、すぐに自分で納得させるように息を吐いた。

友達の家に泊まったのだ。

匂いがつくのも、別に不思議ではない。

深く考える必要もない。


それに、二十年以上一緒にいて、裕介が羽目を外して女遊びをするような気配など、

一度たりとも感じたことがなかった。


「着替え置いておくね」

「ありがとう」


浴室の奥から、湯気に混じった裕介の声が返ってくる。

その響きは、いつもと変わらない、穏やかで、どこか疲れた夫の声だった。

彩は、洗濯機の蓋を閉めながら、胸の奥に生まれかけた違和感を、そっと押し流すように深呼吸した。


----


その日は、特に家の用事があるわけでもなかった。

裕介はシャワーを浴び、着替えを済ませると、そのまま自室にこもった。


「ご飯はどうするの?」

彩が声をかけてきたが、裕介は扉越しに「いらない」とだけ返した。

それ以上、彩は何も言わなかった。

家の中には、いつも通りの静けさが戻る。

裕介はベッドに横になり、ほんの少しだけうたたねをした。


目を覚ますと、時計は午後四時を指している。

スマホを手に取り、画面を見つめたあと、織にメッセージを送った。


——そろそろ、また行ってもいい?


返事はすぐに来た。


——うん、いつでも大丈夫


その短いやり取りだけで、胸の奥に沈んでいた何かが、静かに動き出す。

裕介は、ゆっくりと身体を起こし、出かける準備を始めた。


家の中の静けさが、背中を押しているようにも、引き止めているようにも感じた。


----


毎回、同じやりとりだ。

「お金持ってる?」

「ああ、大丈夫」

その短い会話のあと、裕介は「いってきます」とだけ言って玄関を開ける。

まるでリピート再生しているかのように、毎回、同じ言葉が並ぶ。


靴を履き、外気に触れ、車に乗り込んでエンジンをかける。

その瞬間になって、ようやく自分の鼓動が動き出す気がする。


——どうしてこうなんだろう。


そう考えることすら、最近はなくなってきた。

ただ、決まった手順をなぞるように、同じ時間に、同じ言葉を交わし、同じように家を出ていく。


その繰り返しの中で、何かが少しずつ壊れているのか、

それとも、もうとっくに壊れているのか、

裕介自身にも分からなかった。

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