20.壊れているのか、もう壊れていたのか
裕介は、スマホを見ると、午前十一時だった。
今日は、土曜日で、当然会社は休み。
このまま織と布団でまどろんでいたいのはやまやまだが、いつも一度自宅に戻る。
着替えをしたいのと、家の用事に付き合う必要があるかもしれないのだ。
友達の家で飲んでいる。
まるっきり嘘ではなかった。
裕介はそれが、男か女かとは言わないし、彩も聞いてはこない。
名残を惜しむように、織の身体を一通り貪ると、裕介は布団から出た。
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裕介が部屋を出ていき、玄関の鍵が静かに閉まる音がした。
その音を聞き届けてから、織はゆっくりと立ち上がり、バスルームへ向かう。
鏡の前に立つと、太ももに残った“昨夜の名残り”が、薄く乾いて白くなっているのが目に入った。
触れた瞬間、胸の奥がわずかに熱くなる。
——ああ、本当に、あのまま受け止めたんだ。
そう思うと、昨夜の裕介の息遣いや、自分の中で揺れた気持ちが、ふっと蘇ってくる。
織は、軽く息を吐き、シャワーの蛇口をひねった。
温かい水が流れ落ちる音が、静かな部屋に広がっていく。
シャワーを浴びながら、織はふと目を閉じた。
昨夜のことが、ゆっくりと胸の奥に蘇ってくる。
裕介が、あの瞬間に迷っていなかったこと。
自分を抱き寄せる腕の強さも、息の乱れも、どこか“覚悟”のようなものを帯びていた。
——リスクを考えていないはずがない。
もし自分が妊娠したら、裕介の家庭は確実に揺らぐ。
奥さんの生活も、きっと壊れてしまう。
それでも、裕介はあのまま離れなかった。
織は、シャワーの水音の中で、胸の奥に沈む複雑な感情を抱えたまま、しばらく動けずにいた。
嬉しいわけでも、悲しいわけでもない。
ただ、重くて、温かくて、どうしようもない気持ちが、身体のどこかに残っていた。
やるせなく胸が疼くたびに、運命の輪郭が見えるような気がした。
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自宅に帰ってきた裕介は、靴を脱ぐなり、「ちょっとシャワー浴びてくる」と言って浴室へ向かった。
浴室の扉が閉まる音を聞き届けてから、
彩は洗濯かごに入っている裕介の着替えを取り出し、
いつものように洗濯機へ放り込む。
そのとき、ふとした違和感が鼻先をかすめた。
——匂い。
一瞬だけ手が止まる。
だが、すぐに自分で納得させるように息を吐いた。
友達の家に泊まったのだ。
匂いがつくのも、別に不思議ではない。
深く考える必要もない。
それに、二十年以上一緒にいて、裕介が羽目を外して女遊びをするような気配など、
一度たりとも感じたことがなかった。
「着替え置いておくね」
「ありがとう」
浴室の奥から、湯気に混じった裕介の声が返ってくる。
その響きは、いつもと変わらない、穏やかで、どこか疲れた夫の声だった。
彩は、洗濯機の蓋を閉めながら、胸の奥に生まれかけた違和感を、そっと押し流すように深呼吸した。
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その日は、特に家の用事があるわけでもなかった。
裕介はシャワーを浴び、着替えを済ませると、そのまま自室にこもった。
「ご飯はどうするの?」
彩が声をかけてきたが、裕介は扉越しに「いらない」とだけ返した。
それ以上、彩は何も言わなかった。
家の中には、いつも通りの静けさが戻る。
裕介はベッドに横になり、ほんの少しだけうたたねをした。
目を覚ますと、時計は午後四時を指している。
スマホを手に取り、画面を見つめたあと、織にメッセージを送った。
——そろそろ、また行ってもいい?
返事はすぐに来た。
——うん、いつでも大丈夫
その短いやり取りだけで、胸の奥に沈んでいた何かが、静かに動き出す。
裕介は、ゆっくりと身体を起こし、出かける準備を始めた。
家の中の静けさが、背中を押しているようにも、引き止めているようにも感じた。
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毎回、同じやりとりだ。
「お金持ってる?」
「ああ、大丈夫」
その短い会話のあと、裕介は「いってきます」とだけ言って玄関を開ける。
まるでリピート再生しているかのように、毎回、同じ言葉が並ぶ。
靴を履き、外気に触れ、車に乗り込んでエンジンをかける。
その瞬間になって、ようやく自分の鼓動が動き出す気がする。
——どうしてこうなんだろう。
そう考えることすら、最近はなくなってきた。
ただ、決まった手順をなぞるように、同じ時間に、同じ言葉を交わし、同じように家を出ていく。
その繰り返しの中で、何かが少しずつ壊れているのか、
それとも、もうとっくに壊れているのか、
裕介自身にも分からなかった。




