21.叶わない未来を知りながら、求め合った夜
手を伸ばしている君が消えない。
その一文で、原稿を締めくくった。
裕介が来るまでのあいだ、織は文芸誌向けの小説の最終章を書き上げ、そのまま出版社へ送信した。
恋愛を軸にしてはいるが、甘さよりも、後悔の影が濃く滲む物語だ。
ありきたりと言われればそうかもしれない。
それでも織は、そこに“命のやりとり”を必ず置く。
戦争であったり、
誰かの死であったり、
あるいは静かに訪れる滅びであったり。
——どうやって終わらせるのがいちばん美しいのか。
その問いが、物語全体をゆっくりと流れていくように、
織は意識して書いたつもりだった。
----
織は、就職した頃、重度の月経困難症に悩まされていた。
生理が来るたびに、日常生活が成り立たないほどの出血と痛み。
そのため、医師の勧めで低用量ピルを服用し始めた。
作家になるとき、
「家にいるなら、多少つらくても大丈夫かもしれない」
そう思って、一度服用をやめてみた。
だが、久しぶりに来た生理のひどさに、
織はすぐにその考えを撤回した。
再び服用を続けるうちに、少しずつ症状は落ち着いていった。
そして、気づけば、生理は来なくなっていた。
医師からも「こういうケースはある」と説明を受けていたし、身体の状態としては珍しくない。
ただ、そのことを知っているのは織だけだ。
誰にも言っていない。
裕介にも、当然話していない。
だからこそ、昨夜の裕介の行動の意味が、織にはどうしても知りたかった。
——あの人は、何を思っていたんだろう。
自分の身体では、おそらく起こり得ない妊娠。
自分との間に、子供が欲しかったのか。
----
入ってきた裕介は、どこか気だるげだった。
寝起きのようにも見える。
「今日は、意外と早く来たのね」
「……ああ。家にいても、用事がなければ、別に」
整えたわけでもないのに、整って見える顔立ち。
眉も、髪も、無造作なのに形がいい。
裕介は、いわゆる“イケメン”の部類に入るのだろう。
四十六歳だと言わなければ、きちんと身なりを整えれば、三十代でも通るはずだ。
——多分、自分のことが二の次になるくらい、無理しているんだ。
織はそう思った。
そっと両手を伸ばし、裕介の顔に触れる。
着る毛布の前はゆるくはだけていて、その隙間に、ふっと温度が流れ込む。
裕介は迷うことなく、織の胸元に顔を埋めてきた。
「……ただいま」
「ふふ…おかえり」
その短いやり取りだけで、二人のあいだにある、帰る場所のような静けさが満ちていく。
----
「そういえば、裕介の曲の中のフレーズにさ、【隔離された箱庭で、愛し合おう】ってあったよね?」
「…ああ、だいぶ昔にね」
「今、まさにそうじゃないの?」
一糸に纏わぬ姿で、リビングのソファで抱き合いながら、織がそう言った。
「確かに」
「昔から、裕介、こうなりたかった?」
「…そうかもしれない」
織の言葉に返事をしながらも、そのぬくもりを味わっていた。
やがて二人は和室へ移り、布団に入ると、裕介は自然な流れで織を抱き寄せた。
その動きに迷いはなく、織の呼吸のリズムを確かめるような静かな近さだった。
そのとき、織が裕介の顔にそっと触れた。
「昨日さ、裕介…私の中に出したでしょ?」
「…ああ。…嫌だった?」
すでに入ってきていた、裕介の動きがわずかに止まる。
「違う…の。…どうしてって、聞きたかった…の」
その声は震えてはいないのに、どこか深いところに触れるような響きを持っていた。
裕介は、織の頬に触れ返すように手を添えた。
織となら、一緒にいてもいい、織の子供なら、育ててもいい、本当にそう思った。
そういえば、嘘になりそうで、言葉にしたくなかった。
裕介はそう思ったことを率直に、織に伝えた。
織は、ふうん、としか言わなかった。
----
「嘘じゃないよ。本当に、さっきの事」
裕介は、終わった後で、まっすぐな声でそう言った。
その言葉には、飾りも誇張もなく、たった今も昨夜と同じことをした。
「……裕介」
織が呼ぶ声は、どこか揺れていた。
「……何?」
「……なんでなの?」
裕介は一瞬だけ言葉を探すように目を伏せた。
「なんでって?」
織は、ゆっくりと息を吐き、自分でも整理しきれない思いを、慎重に言葉にしていく。
「……私と、一緒に生活ができるわけないでしょう?」
その言葉は責めているわけではなく、ただ、現実を静かに置いたような響きだった。
裕介の胸の奥に、言い返せない痛みが沈んでいく。




