#25(※流血表現あり)
本話は流血表現があります。苦手な方はご注意ください。
「槿さん。あなたでしょ? 昔、胡蝶の夢を逃がしたのは」
静まり返った空間に望の声が灰色の世界に沈む。
「……」
槿が答える様子はなく、凍てつくような冷たい風が場の空気を攫う。表情を変えることも、声を発することもない槿は人形めいていてあまりに不気味だ。
真意を訊くべきだが、今はここにいられないと望の本能が囁く。立っているのもやっとの望は疼く背中に突き動かされるように周の手を取り、この場を去ろうとする。
しかし、望の足はすぐに止まってしまう。繋いだ手が行かせまいと引き留める。
「望ちゃん、今の話は何?」
震えた声で周は訊ねる。望は背を向けたまま、視線だけ周に向ける。振り向くことのない周は立ち尽くしている。
「……胡蝶の夢を逃がしたのは槿さんだって言った」
「どうして?」
だらりと周の手が下がり、手が離れてしまう。望はその手を見送ることしかできず、脳裏に浮かんだ光景を周へ伝えることにする。
「昔のことだと思う。二人の男の子が上を見上げていた。一人は呆然とした様子で、もう一人は怖い目をしていた。……ぼんやりしていた男の子は周に、怪しい目をしていた男の子は槿さんそっくりだった。そんな光景を見た」
見覚えのある面影の少年たち。今よりも随分と幼い顔立ちの周と槿だった。
光の鱗粉をキラキラと散らしながら空へと飛んだのは胡蝶。確か、当時のことを周はほとんど覚えていないと言っていた。周と思われる少年の目はぼんやりしながらも胡蝶から目を離さなかった。対して、槿と思われる少年の様子は違った。
仕掛けた罠に獲物が掛かったような悪い顔だ。少年がするような顔ではないと望は思った。
「あの子たちの顔はあまりにも二人そっくりで、胡蝶の夢が逃げたときの話を聞いたときの状況と同じだった。それに」
今となってわかることが望にはある。
「槿さんを前にすると、何だか嫌な予感や言葉を飲みこんでしまうことがある。今もそう」
こうして槿と向き合った今はとくにだ。槿はただ何も言わず、じっとしたままだ。彼の口の端から漏れる白い息が表情を曇らせる。
「私の勘じゃない。私の中にいる胡蝶が拒絶しているんじゃないかって思う」
二人の少年から離れていく主観の映像。当然、望が直接見たわけではない。
現場にいたのは周、槿、そして、胡蝶。少年の顔が見えたのなら、視点の主は飛び去った胡蝶のはずだ。
逃げた胡蝶は望に寄生している。胡蝶の影響がこのような形で出て、よくない状況だと望は思う。痣がある辺りが熱を帯びている。
「槿さん。否定されないのですか?」
黙ったままの槿に望は訊ねる。違うのなら違うとはっきり否定すべきだ。
沈黙の後、槿は首を横に振る。
「一族の中で結果が出たこと。兄さんが胡蝶を逃がした。これを覆すと言うのですか?」
「あなたが夢玉を割って逃がしたかもしれないし、周かもしれない。周が夢玉を割るように仕向けたのはあなたの可能性もある」
「仰るとおりですね」
槿は物悲し気に答える。
しかし、その表情は一変する。
「けれど、今更、検証することもないですから」
槿はにやりと不敵に笑う。その笑みは望が見た光景の中の少年がしていた目と同じだ。薄暗く、じっとりとした眼差しだ。皮肉を込めた口元はわざとらしい。
「槿?」
掠れた周の声に槿はころりと穏やかな笑みを浮かべる。
「兄さん。僕のこと、信じられなくなってしまいましたか?」
槿はゆっくりと周と望の元へ歩み寄る。
「兄さん、僕はあなたのことを信じていますよ」
「……」
周が一歩下がると槿は足を止める。
「同族を追い払い、あなた方の保護をしようとしている。信じていただけませんか?」
「周、しっかりして」
望は周の腕を引く。青ざめた表情の周は望の喝に唇を噛むと、恐る恐る口を開く。
「……あの日、胡蝶を逃がしたのは槿なの?」
槿からの返答はない。口元に穏やかな笑みを浮かべたままだ。
「この質問に答えるのなら、はい、いいえで答えてほしい」
周は選択肢を与える。槿は胡蝶の夢を逃がしたのかという問いかけに答えていない。端的に答えさせようと促す。
「……答える前にひとつ、ないしは、ふたつ、私の質問に答えてほしい」
槿は口元に笑みを浮かべたまま、手を後ろで組む。
「兄さん。あなたは補佐官になりたいと思ったことはありますか?」
「え?」
思わぬ問いかけに周は困惑する。
「それは槿の夢でしょ?」
「ええ、そうです。ですが、兄さんは?」
「興味はあったけど、父上の仕事を手伝いたいと思っていたから」
周の父は詩人であった。それと同時に、宝物の管理や文書の管理、作成、子供たちへの教育を担当していた。才があるのにもったいないと言われることもあったようだが、父はこれらの仕事を好んでいた。時折、外交の面で父の詩文の才は重宝され、補佐官の仕事を手伝うこともあった。
そんな父の仕事を周はよく見ていたため、外交官としての父の姿に興味を抱いた。訪問客と接している父は生き生きとしており、相手方と楽しそうに話していた。何度か同席させてもらう度に、詩人という性質上、言葉のやり取りをすることが好きなのだと思った。
また、文書の作成、管理も周が興味を抱いた仕事のひとつだ。文字を書くことを好む周としては記録や文の作成などは苦ではなかった。地味な仕事、閑職、と言われることもあったが、必要なことだと周は思っていた。父から文書の管理は大切なこと、将来のためにもきちんとまとめて管理することは重要だと言われており、周も理解できた。
周にとって、父の影響は大きい。父の仕事を手伝いたいと幼い頃に伝えたとき、嬉しそうに笑っていた姿が印象深い。
「補佐官の仕事に隣接することは多いけれど、僕は地道に物事を積み上げていく父の姿勢に憧れたんだ」
「そうですか。では、次の質問です。科挙の推薦があったという話は本当ですか?」
推薦されるためには条件がある。端的に言えば優秀であること。科挙では語学、詩の才、歴史など、知識を問われる。貘としての能力も問われ、夢の作成も科目に含まれる。
貘という一族をまとめあげる長の補佐ができるか。長の傍に仕えるに相応しい者かを判じるための科挙だ。当然、推薦がなくとも、科挙に合格すれば補佐官の任に着けるが、推薦は特別なものだ。
推薦は長の名でされる。一族内で名が挙げられ、長が推薦するに相応しいと判じられることで声が掛かる。勧誘に近いが、実力を正確に測るために推薦という名を通して科挙を受けさせる。
「僕は何も聞いていないよ。昔、父上に声が掛かったという話は聞いたけれど、そちらと勘違いしてる?」
昔、周の父に声が掛かったと聞いたことがある。周からしてみても、父は推薦されるに相応しい能力の持ち主だと思う。しかし、父はその推薦を辞退している。
優秀な父を持つ周はどうかと言うと、声はかかっていない。父や長から補佐官の仕事に興味があるか、科挙を受けるかと尋ねられたことがある程度で、そのつもりはないと周が答えれば、そうか、と話は終わる。周囲からもとくに声を掛けられることもなかった。
「本当ですか?」
「本当だよ。父上に声が掛かったからと言って、息子の僕もとはならない。第一、僕は父上ほど優秀じゃない」
「詩や書の才は小父上譲りではないですか」
「父上には及ばない」
年の功と言われてしまえばそれまでかもしれない。しかし、周は近くで父を見ていたからこそ、簡単に追い越せないと思ったし、父を補佐官にと望む声が多かったことも頷ける。
それにしても、と周は疑問を抱く。
「ねえ、槿。この話はどこに行き着くの?」
周からの問いに答える前に答えてほしいと言われたことが始まりだ。周は胡蝶逃亡の真実を教えてほしいと思い、槿の条件を受けて質問に答えている。てっきり、関係があると思っていたが、槿からの質問は胡蝶の夢と関係があるように思えない。槿自身の話であって、周の意図とは噛み合わない。
「僕は答えた。だから、槿も答えてよ」
「……そうですね」
困惑顔の周に対して、槿は顔を背ける。
「胡蝶を逃がしたのは私です。そして、あなたに罪を被せた」
槿は淡々と答える。その答えに周の鼓動が速くなり、胸の奥が痛む。望もはっきりとした答えに息を飲む。
「どうして?」
静まり返った世界の中でも周の声音を拾うことは難しい。それぐらい小さな声だったが、槿の耳には届いた。槿は視線だけ周に向ける。
「嫉妬」
底の見えない仄暗さを宿す目に周は理解が追いつかない。
「あなたはいいですよね。優秀で慈悲深い父親を持ちながら、自由にさせてもらって。能力もあるのに、補佐官の道へ進むことを選ばなかった。推薦の話だって出ていたのに、それを聞いていないだって? そんなことありますか?」
声の調子は変わらないが、刺々しい物言いに周は怯む。望も槿の様子が変わったことに身震いするも、周の袖を引く。
「周、行こう」
この場にいてはならない、逃げなければ、と警鐘が鳴り響く。
しかし、望の声は周に届いていない。視線を逸らすことも、瞬くこともせずに槿を見つめている。
「親子揃って呑気なものだ。私が欲したものを簡単に辞退するし、聞いてすらいないだなんて。どれだけ努力しても、まだだと言われ続けた私からすれば反吐が出る」
槿は自嘲気味に口端を上げる。
「周」
槿のただならぬ雰囲気に望はさらに袖を強く引こうとする。
が、周の袖を引く前に望の手は簡単に離れることとなる。望は風が運んだ強い衝撃を腹に受け、そのまま押し出されるようにして身体が後方へ吹き飛ばされる。
「望ちゃん!」
白銀が視界を舞い、周の黒の袖が翻る。
周は吹き飛ばされた望の姿を捉えようと振り返る。白の礫の先、巨体がそこにあった。立ちふさがる巨体の先、雪の上には外套の深い紺色と月の意匠が広がっている。
望の姿ははっきりと視認できない。なぜなら、獲物の様子を窺う竜の後ろ姿が立ちはだかっているからだ。
望は竜の体当たりを受けた。周は望の状況を即座に理解する。竜から守らなければ、彼女の身の安否を確認しなければ、と気持ちが逸る。
無意識に足を踏み出したときだった。
背中から腹にかけて激痛が走り、意識がそちらに持っていかれる。
「……っ!?」
サクッ、と情けなく雪を踏みしめる音の後、周は恐る恐る痛みの元を視線で辿る。
鮮やかな赤を纏う鋼が自身の肉と黒の衣を貫いて覗いている。
「親子揃って、私のことを疑っているにもかかわらず、簡単に近寄らせる。馬鹿なことをしますね」
「な、にを……。ぐっ……」
応急処置をした傷が熱い。剣という枝から零れた赤い蕾は雪の上に歪な形で開花した。




