#31
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一族の調和は緩やかに崩壊していく。その原因が新たに増えた。
長と恵が胡蝶の夢と周に関する重大なことを何か隠している。そのような話が出てきた。当事者である長と恵は調査を進めているという回答に留まり、詳細や調査の進捗を話すことはなかった。
槿自身、あの夜以降、調べてみたが何も得られなかった。他の補佐官や年配の貘たちに尋ねたところ、誰も知らなかった。槿に尋ねられた貘たちが長と恵に問うたところで事態は大きくなった。長と恵のことを不審に思う者まで出てきた。
そんなある日、槿は恵と話をした。話題はとりとめのないものから槿が補佐官になり長くなったという話題へと移った。
「随分と慣れたものだね」
「おかげ様で」
槿も教える立場となった。補佐官になった弟分への指導を任されることとなり、時の流れを感じる。
「胡蝶の件で本当に迷惑をかけた。申し訳なかった」
恵は槿に対して深々と頭を下げる。
「小父上、もういいのです」
槿は恵に顔を上げるように促す。
胡蝶が逃げて以降、一族の混乱状態が続いた。落ち着きを見せるまで、槿は科挙を受けられなかった。無事に合格したと思いきや、事後処理に駆り出され、多忙な日々を送っていた。
「それで、例の調査は進んでいるのですか? ……と訊いていいものなのか」
恵は苦虫を噛んだような顔をする。
長と恵は嫌というほど尋ねられている。訊くことが申し訳なくなるが、胡蝶を取り戻すことは一族の悲願だ。
「あまりね」
「そうですか」
「進捗が思わしくないから、水面下で進める予定の事柄ではあったのだけど」
秘密裏に進めていた調査を暴くこととなった発端は自分だ。槿は気まずくなり、視線を下げる。
「あの日の調査があまりに不十分で、どうにも思うようにいかないんだ。……ねえ、槿」
槿を呼ぶ恵の声色が変わる。槿は恐る恐る恵を見る。
「忘れてきてしまっていると思うのだけど、あの日のこと、改めて訊いてもいいかな?」
慈悲深い目が槿を見つめている。しかし、どこか緊張感のある雰囲気に槿は喉に力を込める。
「覚えている限りのことならば」
「ありがとう。前提の話として、夢玉が割られたとき、槿とあの子しかいなかったんだよね?」
「はい」
「周囲には誰もいなかった、と」
「そうです」
「あの子以外で一番近くにいたのは誰か覚えている?」
「……ごめんなさい、わからないです」
脈打つ音が煩い。槿は呼吸を深くしながら、逸る心の臓を落ちつけようとする。
「いいや、覚えがないのは仕方のないことだから。なら、夢玉が飾られていた台の近く……階の麓辺りに誰かいたと思う。長や年配の方々がいた覚えは?」
「……席次からして考えるといらっしゃたのではないかと思います。ただ、当時、長は席を外していたのではないかと思います。兄さんが拘束されて、台座から離された後に姿を見せたので」
「うん、長は当時席を外していた」
恵はしばらく考え込むと、確か、と言葉を紡ぎ始める。
「槿は夢玉を割ろうとしたあの子のことを取り押さえようとした。そのとき、誰かを呼ぼうとはしなかった?」
「咄嗟のことで、そこまで頭が回らなくて」
「そうか。その後、夢玉が割れた、ということだね」
「そうです」
槿が肯定すると、恵は顎に手を添えて考え込む。一通りの回答が終わり、槿は内心安堵する。
こうして恵から質問されていると、真相まで辿り着いていないのではないかと思う。真相を知る槿の証言以外の証拠は少ない。実質、槿が情報を操作できる状態だ。そして、槿の証言の大半は真実だ。夢玉に周が触れたという真実から先、取り押さえようとしたが力及ばず割られてしまったという部分だけが偽りだ。
大丈夫。真実が明るみに出ることはない。
槿が僅かに気を緩めたところで、あと少しだけ、と質問が続く。
「ふたつ訊きたい。まず、ひとつ。夢玉を割ったのはあの子だね?」
「ええ」
前提も前提だ。違う、と槿が答えるわけがない。
恵からはとくに反応はなく、もうひとつ、と質問が続く。
「槿は夢玉に触った?」
「……え?」
槿は心の臓が一瞬止まったかと思った。
「覚えているかな?」
言葉を詰まらせた槿に恵は申し訳なさそうに問う。
「……触っていないと思います。兄さんを押さえる過程で少し触った可能性はありますが」
「自分の意志で夢玉を触ろうとはしていないということだね?」
「おっしゃるとおりです。触れたとしても、それは意図したものではありません」
「……そう」
慈悲深い瞳が見定めるように槿の心の奥底を覗いたように見えた。瞳の中心がきゅっと絞られ、些細なことでも見落とさまいと、鋭い眼差しをしていた。
それも一瞬。見間違いかと思うほど、今の恵は普段どおりの優しい眼差しを槿に向けている。
「疑うようなことを言って悪かった。話してくれてありがとう、槿」
「いいえ。……私は戻ろうかと思います」
「あまり無理はするんじゃないよ」
槿は恵に一礼する。ぎこちなく踵を返していないか、足早になっていないか、と案じながらも自然体を取り繕うとする。
恵は自分を疑っているのではないか。もしくは、真相に近づいているのではないか。
身体の芯が嫌に冷える。執務室へ戻ろうとする足が覚束ない。
恵のあの目を初めて見た。しとしとと降る恵の雨のように穏やかな男が滝のように打ちつける激しさを持っているなんて。
槿は深呼吸を繰り返す。まだ恵はわかっていない、辿り着けるはずがない、と言い聞かせるように胸の内へ空気を送り込む。
大丈夫。大丈夫だ。きっと、大丈夫。
そう思い込もうとするが、上手く呼吸ができない。喉の奥につっかかる何かを吐き出さないと呼吸ができないような嫌悪感がある。
槿は執務室の扉を前にして蹲る。すると、鍛錬帰りの男性たちが近くを通りがかる。その中の若い貘が槿に気がつく。
「槿? そんなところでどうした?」
声にゆるゆると顔を上げると、おい、と青年は目を丸くし、槿へ駆け寄る。他の貘たちも気がつくと、どうした、立てるか、と集まってくる。槿は彼らに肩を借り、立ち上がる。一度横になった方がいい、という助言により、槿は支えられながら歩き出す。
その際、恵がいた方をちらっと見る。恵はまだそこにいた。
その目に慈しみの色はなく、憎悪を滲ませているように槿のことを見ているようだった。
◆◆◆◆◆
一族の多くが寝静まった頃、槿は相談がある、と恵と麗華の元を訪れた。無事に相談も終わり、礼にと持参した酒と肴を摘まみながら話をしていた。
「このお酒、美味しいね、麗」
「ええ」
「お口に合ってよかったです」
槿は淡く笑みながら白湯を飲む。その様子を見とめた恵は眉を下げる。
「せっかく美味しいお酒なのに、持ってきてくれた槿が飲まないなんて」
「申し訳ありません。明日、朝が早いものですから」
「ちょっとぐらいどう?」
槿は恵の勧めを丁重に断り、盃が空いていますね、と恵の盃に酒を注ぐ。
「ありがとう」
恵は満足気に酒に口をつける。
「小母上はいかがですか?」
槿の勧めに麗華は盃を差し出す。
「ご丁寧にありがとう。手土産を持ってくるなんて、気を遣わなくてもいいのに」
槿が注ぐ酒を見つめた麗華は眉を下げる。酔いが回ってきたせいか、凛とした声音が少々甘くなっている。
「いいえ、突然の、それも遅くに相談したいことがあると訪ねたのですから」
「僕らはいいんだよ。こうして槿がうちで……今日は違うけど、飲みながら話ができるなんて滅多にないのだから」
いつでもおいで、と恵は上機嫌だ。麗華も同意するようにひとつ頷き、酒を一口飲む。
「今度飲むときは、こちらがおもてなしさせてよ。ね、麗」
「ぜひそうさせてほしい。……恵、随分と酔いが回ってない?」
「そう?」
えへへ、と笑う恵の手は麗華の肩を抱いている。その手を一瞥した麗華の隙を見て恵は麗華の肩にもたれかかる。麗華は恵を押し返すようにして姿勢を正させる。
「槿の前」
「えー」
「お気になさらず」
槿は苦笑する。夫婦仲がいいのは周知の事実だ。正確に言えば、恵が麗華に惚れこんでいる。恵が麗華を口説き落とした、周が生まれるよりも前からこんな感じ、と年長者から聞いている。槿から見ても仲睦まじく、比翼連理とは彼らのことを言うのだろうと思うほどだ。
「ごめんなさいね、槿。ほら、恵、お水飲んで」
「私のことは本当にお気になさらず」
面倒くさそうにしていながらも、強く突き放そうとしない辺り、麗華も恵のことを大切に思っていることが伝わる。
麗華に促されて恵は水を飲む。コク、コク、と喉元が動くが、その調子が乱れる。恵は小さくむせる。
「ちょっと、恵」
「ごめん、ごめん。ちょっと息が」
恵は、けほけほ、と咳をする。軽かったはずの咳は徐々に重くなったかと思うと、ひゅうひゅう、ぐるぐると喉が鳴り出す。
「恵?」
明らかに様子のおかしい恵に麗華は血相を変える。咳が収まったと思うと、呼吸が乱れる。
「恵!」
麗華の呼びかけに恵の視線は焦点が定まらない。恵は縋りつくように麗華を抱きしめる。
「……れ、い」
「恵、恵、どうしたの!?」
麗華は恵の身体を支えきれず、倒れてしまう。
カラン、と麗華の持っていた盃が落ちる。その様を槿は静かに見ている。
「槿、誰か、呼ん……」
麗華の言葉が不自然に途切れる。少しすると恵と同じように呼吸音が乱れる。
「き、ん……。おねが……い……」
「……」
槿は動くことなく、座ったまま夫婦を見下ろす。
これでいい。槿はもがき苦しむ声に目を閉じる。
真実に近づこうとしている者がいるならば、近づけないようにすればいいだけだ。
翌朝、恵と麗華の遺体が発見された。恵が使っていた筆や硯、麗華の二胡と弓が破壊されていた以外、荒れた様子はなかった。机の上には酒と紙の包みが置かれ、遺体の傍には盃がふたつ転がっていた。紙の包みに粉末がわずかに残っていたことから、毒を飲んで命を絶ったと判断された。




