#30
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日射しに薄っすらと雲がかかり、少しばかり肌寒い。風に揺れる草花たちも身を震わせながらも、祝いの日だと顔を上げている。
慣れない衣装は大人になった証。頭に頂く冠に違和感を覚えた槿はふうと一息をつく。
元服の儀はつつがなく執り行われた。長の手により、髪を切り、冠を戴いた。成年として、これまでの感謝とこれからを誓う場。同族に祝福されたハレの場だ。
「槿」
声を掛けられた槿はそちらを見やる。数年前、元服の儀を済ませた周だ。彼も成年の装いで元服の儀に参列していた。
「一段落着いた?」
「ええ」
詩の披露や楽器、舞、それから挨拶周りなど、主役にはすることが多い。それらが落ち着いたところを見計らってきたようだった。
「改めておめでとう、槿」
周はにこにこと笑いながら槿へ祝いの言葉を贈る。
「ありがとうございます。兄さんには大変お世話になりました」
楽器や舞の指導の際に周から助言を受けることがあった。また、詩の贈答も執り行われた。
周の元服の際に槿が祝いの詩を贈る立場だったが、今回は逆。周から祝いの詩を贈られ、槿も贈り返した。互いに周の元服の際に贈った詩を踏まえた内容だった。
「素敵な詩でしたね」
「槿の方こそ、整然とした詩だったよ」
さすが、と周に褒められるも、槿は笑みを湛えて謙遜する。
この頃、周へ向ける感情が暗く、澱んだものになってきている。自分でもこの感情を理解し、周へ当たり散らさないようにしようと努めている。周のせいではなく、自分の努力不足だと言い聞かせている。
「槿も元服かあ」
「兄さんとそこまで歳変わらないですよ」
年よりじみたように言う周に槿は冗談めかす。
「そうだけど。ほら、槿はずっと小さい頃から頑張っていたでしょ? 科挙を受ける頃合いも近いのかと思うと努力の花が開くときもすぐなんだろうなって」
花が開く。周の元服の際にも詩に詠まれ、今回の詩でも花が開くときはすぐそこまで来ている、きっと美しく咲き誇ると周は寿いだ。
「槿ならきっと補佐官になれるよ。いっぱい頑張ってきたんだ。補佐官になってからも活躍できるさ」
努力してきた。幼少の頃からずっと、目指してきた。継続してきた自分のことは胸を張って自慢できる。
しかし、立ちはだかる才能が突きつけられる。伸びやかに過ごしてきた周の方が才能があると槿は思ってしまう。事実、周に対する周囲の評価も高い。周自身がそれを知ってか知らずか、呑気に槿に言いのける。
周の明るい笑顔とは対照的にどろっとした澱みが槿の胸中に溜まっていく。
「槿はすごいのだから」
裏表のない真っ直ぐな言葉。周の言動が槿の神経を嫌に撫でていく。
「ねえ、休憩がてら胡蝶の夢を見に行かない?」
周の提案に槿は応じる。正直、周と一緒というところで気乗りしないところはあるが、せっかくの誘いを断るわけにもいかなかった。
周に先行され、槿は胡蝶の夢の元へ向かう。以前と同様、美しい夢玉が鎮座している。
そう言えば、と槿は数年前の記憶を手繰り寄せる。周の元服の際、胡蝶の夢の様子がおかしかったことを思い起こす。それと同時に、周の様子もおかしかった。槿の声に応じず、夢玉に釘づけだった。
今回はどうか、と槿はまず胡蝶の夢の様子を窺う。
蝶が花園で舞い遊ぶ様を意匠とする台座に夢玉は静かに置かれていた。夢玉の中、花園を悠々と飛ぶ胡蝶の様子が見える。ついで、周の様子を盗み見る。
「綺麗だねえ」
「……ええ」
変わりはない。キラキラとした眼差しは宝物を見つけた子供のようだ。
あの日以降、胡蝶の夢が一族の前に出されたことはなかった。長から全体に周知されることもなかった。問題視するようなこともとくになかったのだろうと推測する。
槿はしばらく胡蝶と周の様子を窺う。すると、胡蝶の方に変化が見られる。前回と同じように胡蝶の軌跡が不安定になる。ここから出してと言わんばかりに体当たりを繰り返す。前回よりも乱暴な飛び方に異常を感じる。
「兄さん」
槿は周に呼びかける。
「……」
周からの反応はない。目は虚ろながらも胡蝶から視線を逸らさずにいる。
「兄さん」
槿はもう一度呼びかけ、顔を覗き込む。周の瞳に槿の顔が映り込むも認識していないようだ。
「……胡蝶が」
周が言葉を発する。そして、手をゆっくりと夢玉へと伸ばす。
「外を、望んでいる」
周の手が夢玉に触れる直前で止まる。胡蝶は周の手に留まろうとするかのように、激しく体当たりを繰り返す。
周はさらに手を伸ばす。周の指先が夢玉に触れると、指先に胡蝶は身を寄せ、体当たりを止める。
《周の名を持つ貘の子よ》
どこからともなく声がする。槿は声の主を探して周囲を見渡すも、槿と周しかいない。では、と思い当たるのは周の指先にいる胡蝶の様子を窺う。
《周の役目を担う子よ》
語り掛ける声と共に周の瞳が虚ろになっていく。無邪気に見ていた面影はない。
《その力を長に問い、この身を抑えよ。生まれながらに秘めたその力を、才を、我が身に》
生まれながらの力と才。槿はその言葉に胸の内に溜まる澱みが波打つのを感じる。
周が持つ才能は生まれながらにあるもの。先行していた自分よりも後から学び始めたはずが、いつしか越されてたい。幼い頃から勉学に励んでいた槿を大した努力もなく容易く追い越した周。
なぜ、努力した自分ではなく、お気楽な様子の周の方が認められるのか。槿が目指す地位に就こうと思えば就ける能力も周囲の評価もあるのか。
この感情を羨望と言えたのなら、綺麗だったのかもしれない。
槿の胸中のどろどろとした澱みが大きく膨れ上がる。それは泡が弾けるように、パン、と音を立てる。
槿は夢玉を手に取る。周の反応はない。周囲には誰もいない。幟や槿と周の身体に隠れて何が起きるのかも見えないだろう。
雲は厚みを増し、地上に影が射す。冬の名残を含んだ風が、ひゅう、と流れ、幟を翻す。
今だ。
夢玉を持つ手を周の足元へ振り下ろす。勢いよく叩きつけられるようにして地面と接触した夢玉は、パリーン、と音を立てて割れる。
硝子片が飛び散り、絹のような滑らかな靄が立ち上る。キラキラとした粒子の間を縫うように一羽の蝶が飛び回る。
胡蝶が旋回する。籠から解き放たれた胡蝶は自由を得て空へと上っていく。
槿は周の様子を窺う。視線は空へ、胡蝶をじっと見送っているようだ。
これでいい。槿は口元を袖で隠す。背後から、何の音だ、あれは、と声が聞こえる。
槿は周の腕を引く。周は体勢を崩し、軽くよろめく。
「兄さん、何をしたのです!?」
槿の声が響き渡る。
「……え?」
周は我に返ったのか、声が漏れる。
「おい、槿。何が……」
背後から声をかけた貘に、槿は口元を袖で隠したまま、切羽詰まった様子で周の腕を引く。
「兄さんが……兄さんが、胡蝶の夢玉を割って……」
「何だと!?」
どういうことだ、胡蝶を追え、と騒ぎが大きくなる。
「止めようとしたのですが、間に合わず……」
槿は周の腕を掴む手を見る。それから視線を先へ伸ばす。周の足元には砕け散った硝子片が広がり、夢の残滓が燻っている。
「周、お前、何をしたのかわかっているのか!?」
周や槿の兄分に当たる青年の貘が問うも、周は事態を理解できず、視線が定まらない。
「……何って?」
「お前にまとわりつく残滓の濃さがわからないのか!? 胡蝶が逃げたんだぞ!」
「胡蝶が……逃げた?」
どういうことだ、と周の瞳が槿を捉える。直後、兄分の青年は周と槿の間に割って入ると、槿に下がるように言う。槿が周から手を離すと、青年は周を拘束した。
厚い雲の下、糾弾される周の姿を槿は遠目に見ていた。何てことを、重罪だ、などと言葉が飛び交う中、長が下した決断は追放であった。二度と顔を見せるな、と長に言い渡された周は引きずられるようにして連れて行かれた。
その後、周の両親である恵と麗華への罵詈雑言が飛び交う。二人は地に伏し一身に言葉の槍をその身に受けた。白熱する一族に対し、長の止めの声は中々届かず、逃げた胡蝶を追う者たちが帰還するまで続いた。
「もう止めよ。しばらくの間、恵と麗華の身は私が預かる。処遇は改めて決める」
解散、と長は厳しい声音を発した。怒りが収まらない同胞たちを厳しく睨みつけ、恵と麗華以外の貘が立ち去るまで動くことはなかった。
輪が捌けていき、中にいた恵と麗華の姿がはっきりと槿の目に映る。憔悴しきった様子の二人は長に深く頭を垂れる。長が促しても顔を上げる様子がなく、長自ら恵と麗華の身を起こす。
「槿」
声をかけたのは父だった。険しい顔をする父に身震いすると、そっと背に手を当てられる。
「せっかくの祝いの席がこのような惨事になってしまって……」
「……私が止められなかったから」
槿自身、呆然としていた。音や光景は入ってきたものの、槿の意識ははっきりと認識していなかった。
周囲が閑散とし、やっと、自分がしたことに気がつく。
大罪を周に背負わせた。己の醜い嫉妬のために。
槿が大きく身震いすると、父が慌てて顔色を窺う。
「槿よ、お前は胡蝶を守ろうとしたのだろう? お前のせいではない。周の凶行を止めようとしたその行動、私は素晴らしく思う」
父の言葉が槿の誇りを深く傷つける。
「今日は疲れただろう。戻って休みなさい」
さあ、と槿は父に促される。帰る前に槿は恵たち三人を見やる。未だ立ち上がる様子もなく、項垂れる夫婦と悲しみに満ちた眼差しの長が夫婦を見つめていた。
◆◆◆◆◆
絡めとった夢は水辺の夢。大きく飛び跳ねる蛙の夢だった。槿はその夢を口にしながら夜道をふらふらと歩いていた。
月日が流れ、槿は補佐官となり、多くの仕事を任されるようになった。
胡蝶の夢の一件以降、一族は変わってしまった。
まず、周の追放後の恵と麗華への処遇。長は両者に一月の謹慎を言い渡した。大した罰ではなかったことに、一族から不満の声が上がり、各々が夫婦を冷遇するような態度を取るようになった。槿は両親からも関わりを持たないように言われたが、一族の目を忍んで度々夫婦に会っていた。二人からも遠ざけられていたものの、勉強を建前に会うことを許してほしい、と申し出る槿に夫婦は強く出なかった。周の話題を遠ざける夫婦は疲れ、やつれた様子だった。
そして、槿は念願叶い、補佐官となった。槿は補佐官となってからも、夫婦の元を訪ねていた。一族の二人への態度は悪く、槿が時折会っていることが知られると反対する者が多くいた。
しかし、そんな険悪な態度も時が解決してくれた。恵の能力が必要という場面が多く、度々結果を出す恵に一族は頭が上がらなかった。麗華の方も、二胡の演奏に支障が出るほど、手を擦り切らせて働く姿が多数見られ、同情する者が出て来た。その結果、以前のようにとまではいかないものの、適度に雑談する者が増えてきた。
夫婦と一族の関係は回復してきて、いい兆候に見える。しかし、一族全体で見ると悪い兆しがちらほらと見える。
何がとは言い難い仄暗い空気が常に立ち込めている。笑顔や活気はあるのに、どことなく疲労感や倦怠感を思わせる空気だ。その空気に充てられてか、精神的に不安定になる貘が増えた。槿の母も倦怠感が強い日が多く、寝込むことがある。
槿や槿の父を含めた補佐官と長は日々解決策はないかと模索している。しかし、いい策はなく、負担になるようなことをさせない、食べさせる夢の厳選をするなど、悪化を食い止めるに留まっている。
どうしたものか、と思案する槿は蛙が見ていた夢を念のため取り出し、夢玉にする。感情の起伏の少ない夢は負担が少ないため、重宝される。ただし、夢の内容としてはつまらないものもあるため、効果は今ひとつではと槿は思う。
他には、とふらふらと歩いていると、話声が聞こえる。同じように夢を集めている補佐官かと思った槿は進捗を確認しようとそちらへ歩く。
声の主たちが近くなり、誰がいるのかを把握する。
「一体、そのときはいつ来るのでしょうか」
「いつというのはまだ断定できない」
声の主は恵と長だ。何の話をしているのだろうと槿は聞き耳を立てる。
「だが、周は胡蝶の夢を宿す人の子を連れてくる」
長の胡蝶の夢という言葉に槿の心の臓が跳ねる。
「そこから先のことは見えないが、あの子が周の役目を果たすときは必ず来る」
「周が役目を果たしたとき、あの子自身はどうなるのですか?」
「わからない。そこまでは見えていないから」
周の役目。胡蝶が逃げ出したあの日にも聞いた言葉だ。それは一体何だ、と槿はさらに耳を傍立てる。風で葉が擦れ合う音が憎らしい。
「過去の周は事態の収束後、命を落とす者が多い。それはあの子もその可能性があるのですよね?」
「ああ」
長の肯定の言葉に、恵は重い息を吐き出す。
「どうして、あの子が……。ただでさえ、辛い思いをさせたのに、最悪の場合、命を落とすだなんて……。あの子が何をしたと言うのです?」
声を張り上げる恵の訴えに長は何も答えない。
「僕が代わってやれたのなら、どれだけよかったことか」
「……すまない、恵」
「それは周に言ってください」
恵は珍しく怒りを露わにするも、気持ちを切り替えるように一息つく。
「……胡蝶と周のこと、何が何でも決着をつけなければ。胡蝶の回収は当然のことながら、周の潔白を証明する必要がある」
周の潔白。
槿は息を飲む。
恵は真実を知っているのか。しかし、あの事件では現場の検証は然程されなかった。周への聞き取りも周が取り乱していたこともあり、まともにできていない。槿の証言以外に当時の現場に関する証言はなく、槿の証言が信に足るとの判断で物事が進んでいた。
恵が真実を知る由もない。だが、恵は確信を得ているように言い放った。
槿の額にじっとりと汗が滲む。あの日と同じような、肌寒い夜には似つかわしくない汗だ。
「恵よ。胡蝶を取り戻すことは一族の調和が保たれることでもある。それと同時に、周を戻すことにも繋がる。だから、今しばらくの辛抱だ」
「周を戻すなんて簡単に言えることではありません。あの子が戻りたいと思えますか? 戻りたいとあの子が願っても、一族は受け入れますか?」
長と恵の間に沈黙が流れる。葉の音が間を取り持つようにさらさらと鳴る。
「……今日のところは戻ろう。今までどおり、慎重に頼む」
沈黙を破ったのは長だ。重々しく切り出した長は言葉を続ける。
「承知しました。無礼なことを何度も申し上げ、誠に申し訳ありませんでした」
「いいや。恵の言い分はよくわかる。……私がもっと上手くやれたのならよかったのだ」
長の声音に心労が窺える。
行こう、と長が言うと、二人は去って行った。
息を殺していた槿は二人の会話を思い返す。
胡蝶の夢と周の関係。槿に思い当たる節はなかった。
それよりも、恵があの日の真実、もしくは、近い何かを得ていることだ。
後者のことが知られてしまえば。
槿の心の臓が逸る。まだ恵が真実を知ったとは断定し難い。だが、恵が優秀であることを槿は身をもって知っている。証拠の裏づけは難しいが、真相に近い確信を持たせることとなる。
「……」
槿の手が震える。万が一のことを考えなければ、と思い詰める槿はしばらく動くことができなかった。




