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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第九夜 心の在処を周る詞華
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101/104

#29

◆◆◆◆◆


 光ののどかな日射しの下、前日の雨に濡れた新緑が眩しい吉日、幾重にも花弁を重ねる大輪の花のように幸いが重なるようにと願われる中、周は元服をした。

 あどけない面差しだけが未熟であることを示しながらも、長かった髪を切られ、綺麗に結われた頭に冠が載せられれば成年の仲間入りだ。

 元服の儀の後、宴が開かれ、詩や和歌が詠まれた。槿は弟分として祝いの詩を送ることとなった。そして、周から長へ、一族へ、槿へ詩が返された。

 あとは宴を楽しむだけという中、槿は周から受け取った詩をまじまじと見つめた。

 流れるように美しい筆跡で書かれた詩は槿を含めた年少者のこれからの成長を願うようなものだった。雪の重みに耐え、雪解けの水を得て、美しく花開くことを詠んだ詩だ。

 詩には絵も添えられ、きちんと装丁もされていた。紙も装丁も全て周が選び、詩も絵も周が考えて記したもの。詩や絵の詳細は知らなかったが、恵と相談して準備しているところを槿は見ていた。

 見事。この一言に尽きる美の結晶であった。


「槿」


 声をかけられ、槿は詩から顔を上げる。


「兄さん」


 槿は深々と頭を垂れる。


「この度は元服の儀、誠におめでとうございます」


「そんなに改まらないでよ」


 周は両手を横に振って照れを隠す。儀式用の豪華な衣装をまとい、成年の仲間入りの証である冠を戴く姿は凛々しかったが、気が抜けてしまえば幼さが残る顔をしている。


「今日は本当にありがとう。素敵な詩もいただいて」


「こちらこそ。今改めて拝見したのですが、兄さんの詩は洗練されていて美しいですね」


「父の添削あってのことだけどね」


「この一枚、全て兄さんの才能ですよ。絵も詩もどれも引けを取らない」


「槿にそう言ってもらえて嬉しいなあ」


 からっと笑う周に槿の胸の内で何かどろっとした黒い何かが蠢いた気がする。

 それでね、と周は本題を切り出す。


「よければ、一緒に胡蝶の夢を見に行かない?」


「ぜひ」


 周と槿は一緒に胡蝶の夢を見に向かう。

 胡蝶の夢。昔、長が荘子から取り出したという夢。一族の祝いの場などで見ることができる夢玉だ。

 宴の輪から少し離れた場所に胡蝶の夢は祀られている。宴の様子を遠くから眺めるような位置だ。


「わあ、綺麗だね」


 身を屈める周に倣い、槿も身を屈める。

 蝶が花園で舞い遊ぶ様を意匠とする台座。そこに鎮座するは胡蝶の夢玉だ。

 夢玉をじっくりと見る周の隣で槿も夢玉を見つめる。

 花園を舞い遊ぶ胡蝶の夢。自分が胡蝶となっている姿が夢なのか、それとも人の姿が夢なのか。そのようなことを荘子は説いたと言う。

 胡蝶の夢は通常の夢玉と異なる。夢の内容に合わせて夢玉の見た目が決まるのだが、胡蝶の夢は特殊な見た目を持つ。

 夢玉の内側で花園で舞い遊ぶ胡蝶の姿が見える。胡蝶がひらひらと飛び交い、動いている。

 胡蝶の夢は夢としての完成度が高く、故に夢の本質を表すようなものとされる。だからなのか、通常ではありえない、夢玉の内容が動きを伴って見た目にも反映されているのだと言う。

 夢玉の見た目も、夢の内容も美しい。唯一無二の貘の宝として、長年大切にされてきた逸品だ。


「……本当に綺麗ですね」


 幻想的で、儚げな夢。長以外で胡蝶の夢を実際に見た貘はいないが、こうして夢玉を見るだけでも美しさがよくわかる。

 その綺麗な夢の中、胡蝶は優雅に飛んでいると思いきや、少々軌道が不安定に見える。偶然かと思い目を凝らすと、やはり軌道がおかしい。

 まるで、夢玉という殻から出ようとこちらに向かって飛んでいるようだ。槿たちから見て、夢玉の中央や奥側に飛ぶことはなく、槿たちがいる手前にばかり羽ばたいている。

 こちら側を認識しているのか。

 そのようなことはありえないはずだ。胡蝶の夢玉を見たことは幾度とあるが、このようなことはなかったはずだ。


「兄さん、胡蝶の様子おかしくないですか?」


 槿は周に問いかける。細い目は夢玉に釘づけで、槿の声は届いていないようだ。


「兄さん?」


 槿はもう一度呼びかける。変わらず、周から反応はない。


「兄さん」


 槿は周の肩を揺らす。すると、我に返ったのか、周の瞳が槿を捉える。


「……ごめん。何だった?」


「胡蝶の様子、おかしく見えたのですが……」


「え? んー……」


 周は再度夢玉を見つめる。すると、その瞳は固定されたように見つめるのみとなってしまう。


「兄さん?」


 明らかな異変。夢玉も周も様子がおかしい。

 槿は先ほどよりも強く周の肩を揺らす。


「兄さん、しっかりしてください」


「わっ! ごめん。つい見とれちゃって……」


 周は眉を下げる。


「胡蝶の様子が変って話だよね?」


「はい。何だか、私たちのことを認識しているように見えませんか? ずっとこちら側を向いているというか、自由に飛び回っているように見えないのです」


「んー?」


 周は夢玉と距離を取り、目を細めて胡蝶の様子を窺う。


「……確かに。まるで、出してって言ってるみたい……あ」


 周がそう言うと、胡蝶はひらり、と軌道を変える。優雅に飛ぶその様子は普通の蝶と変わらない。気ままに飛ぶその様子に周と槿は顔を見合わせる。


「戻った?」


「でも、変でしたよね? あの飛び方」


「うん。明らかに意志があったように見えたけど」


「どうかしたのか?」


 その声に二人は振り返る。その際、互いの肩がぶつかり、周は尻餅をつく。


「ごめん、槿。衣装が重くて……」


「ごめんなさい。私が距離をきちんととるべきでした」


 周は槿と声の主の手を借りて立ち上がり、尻の辺りの砂埃を軽く払う。次は裾、と身を屈めると、槿の肩に冠が当たってしまいずれてしまう。周は冠の位置を正そうとするも、思ったように位置が直らない。見かねた声の主が、どれ、と周の冠に手を伸ばし、位置を正す。


「ありがとうございます、長」


「いいや。ふふ、先ほど冠を授けたときも思ったが、大きくなった」


 長は感慨深そうに頷く。


「それで、何かあったのか?」


「あ、そうだ。夢玉の中の胡蝶の様子がおかしくて。ね、槿」


 周に促され、槿は頷く。


「まるで、こちら側へ飛び立とうとするように飛んでいました。今は普通なのですが」


「どれ」


 周と槿は長へ夢玉の正面を譲る。長は身を屈め、夢玉を覗き込む。しかし、胡蝶は自由に飛び回るばかりで、槿たちの言う飛び方は見られない。


「……うむ、何だろうな。今のところは変わりないが」


「ですよね……」


 槿は再度夢玉を見る。あれは偶然だったのだろうかと思うほど、胡蝶は優雅に飛び回り、とうとう花に留まる。


「教えてくれてありがとう。気にかけておくよ」


 二人は、はい、と返事をし、宴の席へと戻って行った。




 無事に宴も終わった。槿は父の傍で手伝いをし、てきぱきと指示を出すその姿に気を引き締めていた。

 あらかた片付けが済み、先に戻りなさい、と促された槿は帰路に着く途中、周からもらった詩を忘れたことに気がつく。すぐに道を引き返し、片付けをしていた場所へ向かうも、父の姿も、詩もなかった。近くにいた貘に声を掛けたところ、父は別の場所で指示をしており、詩と思われる包みを持っていたとのことだった。槿はその貘に礼を言い、父が向かったという場所へ向かう。

 しかし、そちらにも父の姿はなかった。近くにいた貘に聞くと、話し合いがあるらしいとのことだった。帰りは遅くなるかもしれない、と言われ、槿は先に帰ることとした。

 父が持っているのだとすればいい。そう思う槿の耳に馴染みの声が入ってきた。そちらを見やれば父と恵、他に補佐官が数名、長の包の近くで話していた。父の手には周からもらった詩がある。やはり父が持っていたのだと思い、安堵する。

 彼らは周の詩を見て、何やら話している様子だ。話し合いと聞いていたこともあり、立ち去ろうと思った。

 が、槿の足は止まる。

 なぜ、周の詩を見ながら話し合いをしているのか。その疑問が浮かび、足音を潜めて父たちのいる輪に近づく。耳を澄ませると、話題は周のことであった。


「どの詩も立派であった。詩だけではない。絵も、器楽も、卒がない。和歌も見事だった。剣舞の身軽な動き、しなやかさが窺えた。振る舞いも申し分がない。さすが、秀才の恵と二胡の名手、麗華の息子だ。芸事に秀で、朗らかな性格も好ましい。将来有望だな」


「光栄なお言葉」


 恵が恭しく頭を垂れる。


「少し抜けているところがあると思っていたが、ここ最近の成長は目覚ましい。身になるまで時間は掛かるが、身になればすぐに伸びる。そういうところは麗華に似たな」


「息子の努力を皆様に認めていただき、親として嬉しい限りです」


 補佐官たちから賛辞を送られる恵は自分のことのように嬉しそうに笑っている。蕩けてしまいそうな笑顔に、相変わらずの溺愛っぷりだ、とからかわれる。


「周は補佐官を目指さないのか?」


 ある補佐官からの言葉に槿の胸が大きく脈打つ。

 周の口から補佐官を目指すということは今まで一度も聞いたことがない。まだ決めてはいないけれど、父の仕事の手伝いをしたいと話していたことは記憶に新しい。今まで聞いていたとおりのことを元服の儀でも宣誓していた。


「尋ねたことはありますが、補佐官よりも他のことをしたいという気持ちの方が強いようです」


「恵は薦めないのか。と言っても、恵も補佐官の道へ進むつもりがなかったが」


 優秀な恵は長や現役の補佐官たちから推薦を受けたものの、辞退したという経歴を持つ。推薦者であった父は、もったいない、と当時は嘆いたという。


「はい。こういう道もあると提示することはあれど、私からこうしなさいと言うつもりはありません。

息子が興味のあることをしてくれたらと思います」


「周が決めたのならいいが……。父親の仕事を手伝うと言うとは、若者がするには地味な仕事だと思うが」


「外交のことにも興味があるようですから、機会があれば文のやり取りを任せてみようと思います。文書の管理をすることで今までのやり取りを把握できますし、大切なことだと私は考えています」


「それはいいな。これだけ詩文ができるのだから、問題ないだろう」


 気さくに言う補佐官は父の手元にある詩を見て大きく頷く。


「やはり、惜しいな。ここまでできるのなら、補佐官として欲しいところではある。長も周の能力を買っている。気が変わって補佐官になりたいと言えば、我らは喜んで歓迎しよう。推薦しようと思う者も多いことだし。もちろん、恵も今から補佐官になってくれて構わんぞ」


「時折、お手伝いさせていただく今の環境がちょうどいいのですが」


「また振られてしまったな」


 和やかな笑いが輪に広がる。


「そう言えば、槿の方はどうだ?」


 突然自分の名前が出てきた槿は生唾を飲む。


「周の次はあの子が元服だ。あの子は昔から賢い。知識量は最近の子たちの中でも頭一つ抜けている」


「そうだなあ。幼い頃から難しい書を読んでいて、これは有望だと思ったことだ」


 なあ、と補佐官は同意を求め、賛同する者も多い。


「仰るとおりでございます。よく励み、努力し続けられる力は彼の強い武器だと私も思います」


 恵の返答に槿はほっと息をつく。


「……だが、槿は頭が固い」


 そう言ったのは槿の父だった。


「頭に知識は入っていても、それを上手く活用できるかが補佐官としては重要だ。教本どおりにいくことばかりではない。異常時に臨機応変に動ける力が不足している。積極性に欠けるところもある」


 父の言葉は的を得ている。

 知っているだけでは不十分。そこから先、その知識を持ってして、どう活かすのか。

 自覚していることだが、父からの評価に自信がなくなってしまう。


「そうだろう、恵」


「……彼は自分の知識の活かし方に関して未熟なところがあると思います。多くを知っているが故に過去の事例に引っ張られているというような印象を受けます」


「もちろん、私としてはそれが悪いことだとは思っていない。ただ、教訓や過去の者の知識だけではいけない」


 槿の父は一息つき、周の詩を見る。


「槿の言い分は他者が残したものをそのまま引き出していることも多い。槿自身の言葉や考え、行動を示せなければ厳しい」


 父から直接言われることがなかった評価。どうして教えてくれなかったのか、と足元を見ながら疑問を抱く。


「伸びしろがあるということか」


「若いのですし、これからですよ」


 擁護するような声もあるが、父や恵からの言葉はない。

 槿はこれ以上聞くこともできないと判断し、そっとその場を離れることにする。

 いつからだっただろうか。昔は周に教えることも多かったのに、気がつけば追い越されていた。

 詩文や器楽の芸事だけでなく、性質さえも周の方が評価されている。槿も周の能力ならば補佐官になれるだろうと思う。

 そう言えば、最近は槿よりも周が褒められることの方が多い気がする。


「槿」


 槿は声を掛けられ、我に返る。どこをどう歩いていたのかわからないが、一族の玄関口としている辺りまで来ていたらしい。

 声の主を見やれば、周だった。式のために着ていた衣類ではなく、普段の服装となっており、見慣れた姿だ。唯一の違う点は緩く結んだ髪の長さが短くなっているぐらいだ。


「どこへ行くの?」


「……少し散歩にでも」


「奇遇だね。僕も一緒に行っていい?」


 気分転換に、と周は力なく笑う。

 主役である周は成年の仲間入りを示すだけでなく、元服に至るまで成長できたことを感謝する役目を持つ。様々な芸事の披露、周囲への挨拶周りなど、主役にはすべきことが多くあった。着飾っていた重荷が下りれば、疲れが押し寄せてくるのも槿には理解できる。

 できることなら一人でいたいところではあったが、ここで断るのも怪しく思われる。槿が応じると、周は一息つき、槿の隣に並んで歩き出す。


「今日は一日長かった」


「お疲れ様でした。どれもお見事でしたね」


「緊張して仕方なかったよ」


 周は胸に手を当てて、ふう、と息をつく。


「でも、成功は指導してくださった方たちのおかげだよね。兄様(あにさま)姉様(あねさま)方の成年の儀を見ていただけの頃は本当に呑気だったと思う」


「私も兄さんのお手伝いをしていて、こんなに大変なのかと思いました」


「だよね。次は槿だ。すぐだよ、すぐ」


 小突いてくる周の言うとおり、数年なんてすぐだ。


「私も心の準備をしなければ」


 先ほどの父の言葉がよぎる。

 科挙が受けられるのは元服してからだ。槿としてはすぐに受けたいと思うも、今のままではいられないと思う。

 意外と時間がない。実感すると顔が強張る。


「槿は目指すところがあるから大丈夫だと思うけど」


「……そう言えば、兄さんは明日からどうされるのですか?」


 成年の儀を終えた貘は何かしらの職に就く。適性の判断のため、当事者の希望も踏まえていくつかの職を経験し、正式に決まる。


「父上の仕事の手伝い。慣れてきたら、長や補佐官の手伝いをするかもって」


「……それは、補佐官の適性を見るということですか?」


「兄様方の話を聞いていると、皆経験するって話だけど」


 男性の貘は希望にかかわらず、一度は長や補佐官の近くで仕事をすることが決められている。貘の一族の中心とも言える者たちの側で働き、どのように政がなされるのかを己の目で見る経験も必要だろうという長の判断だ。


「補佐官に興味は?」


「外交とかは興味あるけど、一族の中心で物事を決めていくというところは性に合わない気がするんだよね」


 恵が言っていたとおりだ。

 周は補佐官という職にこだわりがない。しかし、現職の補佐官たちは周の能力を買っている。

 では、補佐官になりたいと思う自分は。


「槿?」


 少し先で周が足を止め、振り返る。


「……ごめんなさい。母から頼まれ事をしていたことを思い出して。戻らせていただきます」


「そうなの?」


「はい、失礼します」


 槿は一礼すると、走り去る。

 自分が望む立ち位置を望んでもいない彼。周囲から望まれているにもかかわらず、彼はそれを知らないようだ。

 努力してもまだ足りないと言われる自分と、気ままに過ごしていながらも身に着いた周。

 嫉妬するのは違う。自分が未熟なせいだとわかっているが、心の奥底にいる暗い感情が鎌首をもたげる。

 こんな感情を持ちたいわけではないのに。

 槿は唇を強く噛み締めながら、がむしゃらに走り去った。


◆◆◆◆◆


 焦りは顕著になる。槿の気持ちを加速させるように、周は先へと進んで行く。

 学問も、芸事も、周は才を活かしている。父から周のことを聞くと、なおのこと、補佐官に必要な資質が備わっていることがわかってしまう。

 元服が迫る。準備のため、恵から詩や和歌の指導を受けていたところだ。

 講義を終えて気が落ち着かなかったため、ふらふらと歩いていたところ、巻物を抱えた父と鉢合わせた。


「講義は終わったか」


「はい」


「最近の調子はどうだ?」


「この頃は元服の用意をしながら、政の記録を紐解いております。父上が携わった政策の議事録も読みましたよ」


「そうか。……なあ、槿」


 はい、と槿が応じると、父は逡巡した後、口を開く。


「元服後、何かしらの仕事に就くこととなる。槿は補佐官になるということでよいか?」


「はい。もちろん、科挙に合格してからですが」


「科挙を受けるのはいつ頃と考える?」


「先生とも相談しましたが、元服後、三年以内には。勉学に励むのは当然ですが、その間、補佐官の仕事を近くで見たいと考えています」


「実際に仕事を見るのもよい経験になるだろう。……槿よ」


 父は神妙な顔つきで槿を見つめる。槿は父の言葉を促すように見つめ返す。


「補佐官以外の道を考えたことはないのか?」


「……え?」


 幼い頃から補佐官を目指して努力してきた。補佐官以外の道について、尋ねられるとは思ってもみなかった。


「補佐官になることを否定するつもりはない。幼い頃からよく励んでいたからな。……本当に、その道だけでよいのか?」


「……私には向いていないのでしょうか?」


 周の元服の儀があった日のことを槿は思い出す。あのとき、父は苦言を呈していた。


「先ほど言ったとおり、否定するつもりもないし、向いていないとも思っていない。ただ、この頃は気を張りすぎているのではないかと思って」


 父は槿の頬に手を添える。幼い顔立ちに似合わない苦労の色が見られる。


「元服が近く、急く気持ちもわかる。忙しいことは承知の上だが、少しは息抜きをしてはどうだ? 勉学だけというのも味気ない」


「息抜きですか」


 そうは言っても、と槿の視線が下がる。

 何をすればいいのだろうか。思い浮かぶは書籍の姿。


「書を読む以外に好むものは?」


 父の手が離れ、槿は視線を上げる。案じる父の顔に、やはり思い浮かぶものは書籍の姿だけだ。


「身体を動かす、楽器の演奏、絵を描く……。何かないのか?」


「……なら、碁を。久しぶりに、父上と碁を打ちたいです」


 槿が答えを捻り出すと父は目元を和らげる。


「いいとも。なるべく早く仕事を切り上げる。それまでゆっくりしていなさい」


「はい。楽しみにしております」


 槿は父の背を見送る。父の姿が見えなくなると同時に、力が抜ける。

 書を読む以外に好むもの。それを尋ねられたとき、槿には思い浮かべるものがとくになかった。

 今まで、必死に励んできた。それを誇らしく思う。しかし、それ以外に何を持っているのかと問われると答えがすぐに出てこない。

 文武共に並以上にできると思っている。それで不自由はないはず。

 それなのに。

 槿は小脇に抱える書籍を持ち変える。抱きしめるように書籍を胸へと当てる。

 自分は間違えたのだろうか。今まで積み上げてきたことは正しいはず。なのに、何かが不足しているようにぽっかりと空いた穴を風が吹き抜ける。

 そんな槿の耳に伸びやかな音が入る。その音の先はどこかと視線を向ければ、槿の背後だ。陰に隠れている音の主を見つける。

 そこにいたのは恵と周だ。座って二胡を演奏する周の傍で恵が目を閉じながら聴き入っているようだ。

 周の母であり、二胡の名手、麗華の音よりものびのびとしており、親しみのある音色だ。麗華の音色を知る槿からすると、周の二胡の音は幼く聞こえる。しかし、周は幼稚な音を気にせず、楽しそうに弾いている。周の自由気ままな性質をそのまま表しているようだ。

 周は芸事の才がある。そのどれもを楽しそうにこなす。勉学においても、興味のある分野は目を輝かせて取り組む。

 槿の胸が小さく痛む。彼との違いはそこなのだろうか。いつも気ままに、のびのびと振舞う周。対して、書籍と見つめ合い、勉学に励んでいる自分。縮こまるようにして向き合っている自分よりも、思うままに過ごす周の方が秀でているのはなぜなのか。

 弦と弓が擦れ、キュイ、と嫌な音が一瞬する。

 嫌な音が耳の奥にこびりついて離れない。槿はその場を後にするのだった。

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