#28
◆◆◆◆◆
物心ついた頃から書物を読むことが好きだった。知らないことがあると両親によく訊く子供だったという。
補佐官である父親は息子にも補佐官になってほしいと思った。幼少の頃から学習意欲が高かったため、きちんとした教育を早くから受けさせることにしたと両親は言っていた。
「槿は今でも賢いのだから、大きくなったら、父上のような補佐官になれるでしょうね」
「ちちうえのようなほさかんになれたら、うれしいですか?」
「ええ。父上も喜びますよ。ね?」
「ああ。槿なら、立派になれるさ」
父に頭を撫でられた。
自分が頑張れば頑張るだけ褒めてもらえる。両親が喜んでくれることが嬉しい。
幼心に心が温かくなるということを実感した。
◆◆◆◆◆
学習は順調に進んでいた。
教育担当者は同じぐらいの歳の息子がいる詩人。慈悲深いと言われる彼を師として仰ぎ、彼の息子を兄のように慕い、勉学に励むのだと幼心に理解していた。
隣で一緒に学ぶ彼に教えてと請われ、教えることもあった。
「わあ、きんはすごいなあ」
パチパチと拍手する彼に照れ笑いを浮かべる。
「おや、周。槿から教えてもらったのかい?」
師である恵が顔を覗かせる。歳が近いこともあり、彼の息子である周と共に講義を受けることが多い。
「はい、ちちうえ。みてください。きんがおしえてくれたのです。とってもじょうずでした!」
「そうか。上手に教えられるというのは、きちんと理解している証拠だね」
師からも褒められる。隣で周からも、すごい、と賛辞を送られる。
「もっとがんばります。ぼく、ちちうえのような、ほさかんになりたいから」
「それは立派な志だ。補佐官には相手にわかりやすく説明できる力は必要なことだから、槿の力が活かせるお仕事だね」
「きっと、ほさかんになれるよ」
周に手を握られ、槿も握り返す。
「はい! ぼく、ほさかんになれるように、おべんきょうがんばります!」
「いい心がけだ。さあ、続きのお勉強をしようか」
はーい、と返事をして勉強を再開する。
たくさん褒められる。夢を応援される。それはとても心地のいい経験だった。
◆◆◆◆◆
「槿、ここについてなんだけど、質問していいかな?」
「はい、何でしょうか」
恵から尋ねられたのは詩の課題についてだった。恵が出した題に沿って、作成したもの。いいものになったとは自分でも思っておらず、恵から何か言われることは覚悟していた。
詩人である彼から見ると稚拙な出来であることは明白だった。
実際、恵からの指摘は槿が誤魔化そうとしたところばかりだった。二、三、指摘を受け、自分なりの解釈を伝えた。恵から反論はなく、こんなやり方もある、ここは素敵だからこのままにして、と助言を与えられた。
「頑張って作ってきたことがよくわかる。難しい言葉も知っているし、他の詩のこともよく勉強している。焦ることなく、身に着けたことをさらに根づかせるようにしていこう」
「はい」
「うん。では、もう一度」
返された詩を受け取ると、次は、と周の詩の講評に入る。
「周の詩もよくできているよ。ただ、思いつかなかったところ、無理矢理貼りつけたね?」
「父上……じゃなくて、先生の目はお見通しですか」
へへ、と誤魔化すように笑う周に恵は困ったように眉を下げる。が、父親の顔はすぐに引っ込み、師の顔つきとなる。
「全体的にすっきりとしている。余計な装飾もなく、かと言って飾りすぎているわけでもない。それゆえに、思いつかなったところの粗雑さが目立つ」
恵は周に詩を返す。
「そこだけ、考え直してみようか」
「はい」
周への講評はそれだけだった。槿からすると、周の詩はあまりにも簡素なものだった。だから、恵は悪目立ちするところだけを直すよう指摘したのだろう。
その後、各々詩を直し、再度講評。槿はよし、周はもう一度、と指示された。
詩人の息子でも詩の才があるとは限らない。顔はそっくりでも、違うところを感じたのだった。
◆◆◆◆◆
周の詩の才は徐々に開花していった。基礎の基礎を強固な物とした周は語彙や技法の幅をじわじわと広げていき、発展していった。階段を一段、一段、踏みしめるような成長の仕方をした。
その一方で、槿の方が恵から指摘されることが増えた。厳しく指導するという方針へ変わったこともあり、今までは見逃されていたようなことも注意された。甘めに見られていたのだと実感するほど、恵は容赦がなくなった。
詩才の差が大きくなったと槿が痛感したのはあるときの宴の際。来賓を迎えた中で、詩を披露することとなった。
槿に与えられた題は花。槿は貘と来賓客の関係が長く続くことを普遍的な花の美に喩えた。詩の一部に客人の一族に代々伝わる伝承を織り交ぜた点は両者に受けもよく、槿はほっと胸を撫で下ろした。
しかし、次に披露された周の詩に槿の詩はかき消されることとなる。周に与えられた題は月だった。月の満ち欠けは不老不死の象徴。相手方の長い繁栄を祈る内容だった。
一見するとよくある詩。だが、言葉選びが巧みだった。月が満ちては欠け、再び満ちるように、詩の余白と密が絶妙に配置されている詩だった。両一族からも相手からも大きな拍手が送られていた。
その後、周の父である恵の詩も披露される。言うまでもなく、槿には到底作ることのできない詩が披露され、圧倒された。
宴も無事に終わり、槿は宴の片づけの手伝いをしていた。相手方ともいい話ができた、料理も良かった、と振り替える声の中、周の詩才は父譲り、さすが恵の息子、という話も多く耳にした。
槿はどことなく居心地が悪くて、割れやすいから人気の少ないところでやってくる、と飾り物を持ってその場を離れた。
逃げるようにして槿が向かった先は宝物を管理している小屋の影だ。小物を拭いた後、小屋へしまうのだから、ちょうどよかった。
陶器の小さな碗。槿の手にすっぽりと収まる大きさの碗は食器ではなく、花を生けるものだ。水を張り、そこに色とりどりの花を浮かべる。小さな花の池をいくつも連ね、宴に色を加える。
槿は割れないように黙々と碗を拭いていく。遠くで片付けをしている同胞たちの声が聞こえるものの、比較的静かで余計な落ち着く。
最後の一個を手にしたときだった。荷車の音が近づく。しまっていきましょう、と話す声の中に父の声があった。
確認をしてもらって一緒にしまおう。槿はそう考え、手にした最後の碗を急いで拭いていく。その間に、重い物を運んでいるのか、父たちは声をかけながら運び込んでいく。
荷車の荷が運び終わったのと槿が最後の一個を拭き終えたのはほとんど同時だった。
「いやはや、お疲れ様でした。残るは小物関係と垂れ幕あたりのですね」
「ええ。垂れ幕関係は少し時間がかかるとして……。小物の二箱は間もなく運び込まれるでしょう。あと、槿が花生けを見てくれているようです。こちらもそこまで時間はかからないだろうと聞いています」
思わぬところで自分の名前が出て槿の肩が跳ねる。
「なら、小物二箱と花生けはこのまま待とう。ついでに確認も済ませてしまおう」
父の提案に一同は賛成する。
せっかくなら声をかけよう。そう思った槿は影から顔を覗かせようと立ち上がる。
「それにしても、今日の槿の詩はよかった」
「緊張していたでしょうに、相手方の縁起話を詩に取り入れる機転。さすがと思いました」
会話が始まってしまう。それも、自分のこととなると声をかけにくい。
だが、声をかけられない戸惑いよりも賞賛に対する安堵が槿の胸中を占める。
「周の詩もよくできていた」
父の感想に、確かに、と他の貘も賛同する。
「そうですねえ。最近、周の伸びが早いようで。のんびりしていると思っていたら、急に上がってきましたね」
「本当に。さすがは、恵の息子。詩才を見事に引き継いだ」
「周も槿も有望株ですなあ」
ははは、と朗らかな笑い声が聞こえる。
しかし、その中に槿の父の声はなかった。
◆◆◆◆◆
いつだって穏やかな顔の師にしては珍しく、険しい顔をしていた。彼の手には課題で出した詩が収められている。
詩の講評は次回とされ、講義後に槿だけ呼ばれて今に至る。
「槿」
表情に反して声音はいつもどおり。それが余計に槿の心をざわつかせる。槿には思い当たる節があり、恵の目を見ることができず、机の木目を見つめていた。
「出してもらった詩について話を聞きたい」
「……はい」
槿は努めて平静を保った声で応じる。
「苦戦したみたいだね」
恵は詩に目線を落とし、目で追う。
「……引用とまではいかなくとも、参考にした詩の面影がはっきりとある。それも、ひとつ、ふたつではない」
恵は詩から目を上げる。
「厳しいことを言うけれど、名のある詩を切り貼りしただけ。槿が作った詩と言えるだろうか?」
「それは……」
恵の言うとおりだ。考えてもまともな詩は浮かばず、名作と呼ばれる詩を継ぎ接ぎしたようなものを提出した。
「過去の詩を参照することは悪いことではない。それも技法のひとつだからね。槿がよく取り入れる技法だ。ただ、今回の詩はあまりにも貼りつけられて出来上がっているように見える」
師からの指摘に槿は何も返せない。
「槿、君の詩は典拠のある詩だ。それはいいところでもあり、悪いところでもある。過去の作を取り入れるというのは、そのままをいれるだけでは意味がない。昇華させなければならない」
「はい」
「詩に限った話ではない。書物に載っていることを読み、知ることは簡単にできる。ただ、それを自分の物とすること、定着させることは難しい。活かすともなると難易度は上がる」
恵は表情を少し緩める。
「槿は手数はあれど、それの扱い方がわかっていないところが多いと思う。難しいことをたくさん知っているがゆえの悩みでもある。とにかく、焦ることなく進んで行こう。今後のやり方も考え直して、それで伸ばしていこう」
「やり方を変えるのですか?」
「復習の時間を増やそうと思っている」
「……自分で行うのではいけませんか?」
槿は講義を受けた日の夜は復習を欠かさずしている。母からどんなことを学んだのかと確認が入ることもある。きちんと理解できていないと精進するようにやんわりと言われる。
「もちろん、自主的にしてもらって構わないよ。ただ、講義でも振り返りの時間を設けようと思っている」
「……」
槿は表情を曇らせる。それを慈悲深い瞳は見逃さなかった。
「何か不安な点がある?」
「……先生から教わるのですから、新しいことや科挙の対策をしていただきたいと」
「復習に時間を割く分、その辺りは減ってしまう。ただ、今後、科挙の対策をする上でも必要なことだから」
「先生の仰ることはもっともです。ですが、遅れを取るわけにはいかないのです」
両親からも補佐官になるように期待される日々。とくに、母はかなりの熱を込めている。幼い頃から賢い息子を誇りに思ってのことだろう。
父も、槿が熱心に取り組んでいることを評価している。恵に槿の出来はどうかと尋ねることもあるという。よくやっていると聞く、これからもきちんと励むように、と言われ、色々な書を与えられるようになった。難易度の高いものもあるが、槿は眠る前に読むようにしている。
知識を蓄えてはいる。しかし、この頃の課題は思うようにいかない。知っていることを含ませているのに、恵から指摘されることが多い。
対して、周はどんどん成長していることが目に見えてわかる。科目によって差はあるものの、苦手と言っている算術も、数年前に比べれば精度が格段に上がっている。
とくに周が大きく成長した分野は詩作や経典解釈だ。昔よりも洗練された詩を作り、書の読解も難なくこなすようになった。
全体的に学力が上がっている。それに伴い、頭の回転も速くなってきている。
今までは槿が先を行っていたはずが、あっという間に追い越された。
楽しそうに身に着けていく周が槿には眩しかった。ひたすら書を読み、もがきながら詩を作る自分とは大違いだ。
そんな焦りが槿の中で生まれる。せめて、周と同じぐらいの学習速度でなければ、と。
「……槿。君は昔から補佐官になりたいと言っていたね。それは今も変わらない?」
「はい。だから、科挙に合格しないと」
「そうだね。確認したいのだけど、槿は科挙に合格すること、補佐官になることが目的なの?」
「それは……」
目指すは補佐官になること。そのために今まで勉強を頑張ってきた。
それをどうして今更確認するのか。恵からの問いに根本が揺らぐ。
「補佐官になって何をしたいのか、何を得たいのかが行きつくところだと私は思う。頑張りたい仕事があるでも、長のために勤めたいでも、名誉ある職だからでもいい。槿が補佐官を目指す理由は何だった?」
穏やかな口調が問う内容は特段珍しいものではない。ありきたりな問いかけである。
沈黙が続く。恵は槿からの答えをただ静かに待っている。
なぜ、補佐官を目指すのか。それをすぐに答えられない自分がいることに気づいてしまう。
「……私、は……父のような補佐官になりたいと思って……」
何とか言葉を紡ごうとするも、声が掠れてしまう。
うん、と恵は頷くも、その表情は浮かないものだ。
「槿は本当に補佐官になりたい?」
「……はい」
そのために今まで勉学に励んできた。今更引き返すことなどできない。
「槿の夢なんだね?」
「そうです」
「……そう。わかった」
恵は考え込むように目を閉じる。
しばらく恵がそうしているのを見た槿の胸の内は静かに冷えていく。
自分が幼い頃から目指していること。ずっと抱いてきた夢だ。それは恵もよく知っているはずで、わざわざ確認するほどのことなのかと思う。
いや、確認しなければならないほど、自分の今の状況が絶望的なのかもしれない。もしくは、やる気がないと思われたか。
どんどん嫌な思考に嵌りそうになるが、恵の瞳がゆっくりと開かれたことでその思考は止まる。
慈悲深い目はこちらを案じるように見つめている。
「槿が目指したいというのなら、私の考えは変わらない。今は復習に時間を割くべきだ」
ふっと恵の目元が和らぐ。緊張が解れたような目元の緩みは師としての恵ではない。心優しい年長者の顔になっている。
「引き留めて悪かったね。さあ、今日のところはもうおしまい」
にこりと笑う恵に促され、その日は終わってしまった。




