#32
◇◇◇◇◇
「起きて」
優しい声音は懐かしい。乾いた土を潤す雨のように声がじんわりと全身へ行き届く。
重い瞼を押し上げるようにして目を開ければ、声の主がこちらを覗き込んでいた。
「周」
慈愛の籠った声の主を呼ぼうとするも、唇が動くのみで音にならない。それでも、声の主は聞こえているよ、と示すように柔らかく笑む。
「綺麗なお月様が隠れてしまうよ」
おつきさま、と声になりそこなった言葉で聞き返す。
「鏡のようなお月様。雲に攫われてしまうのは非常に惜しい」
だから、と声の主は周の身体を優しく抱き起す。
「起きるんだ、周。お月様から目を離してはいけない。手放してはいけないよ」
◇◇◇◇◇
チカチカと視界が煌めく。大量の金剛石が放つような輝きに周は開きかけた目を閉じかける。
何度か瞬きを繰り返した後、視線だけを巡らせると、わずかな視界に座り込む娘を捉える。深い紺色の外套と髪が光の粒子を纏った風に遊ばれている。
空を見上げる彼女の目は無だった。あの目はあんなに虚ろになることがあっただろうか。そこに確かにあるはずの月が雲に隠れてしまっているように見える。
周は彼女に手を伸ばす。しかし、あと少しのところで届かない。全身が痛む中、何とか身を捩って手を伸ばす。
まだ届かない。月は手を伸ばしても届かないものだ。
それでも周は手を伸ばす。指先が紺色に触れたような気がする。
もう少し。今度はだらりと下がった手に触れる。触れた小指に自分の指を絡める。
「のぞみ、ちゃん……」
周は彼女の名を呼ぶ。風の音でかき消されていてもおかしくないぐらいか細い声。
彼女の視線がこちらに向けられる。力なく傾けられた顔は操り人形のようだ。
周は這うようにして望へ近寄ると彼女の手を握る。
「目を、さまして」
「………………私、は」
どこかで木の枝が折れたような硬い音がする。その音と共に風が止む。
風に遊ばれていた外套と髪が落ち着く。瞳の月鏡の曇りも晴れた。
「……ゆめ…………うつつの……かりそめの、やど……」
呟いた望は支えを失った人形のように倒れる。望の身体を受け止めた雪が小さく舞う。
「……望ちゃん」
周は身体を起こす。全身が熱を帯び、痛みを訴えている。頭もぼんやりとしていて、単純なことを考えるにしても時間がかかる。
それでも、目の前の彼女のことをどうにかしなければ、と身体を動かす。目を閉じ、動く様子のない望の口元に耳を寄せれば、呼吸は落ち着いている。それに息をひとつつく。
先ほどのあれは何だったのか。望から漂う夢の気配は今までよりも強い。本格的に胡蝶の夢が根づいてきているらしい。
周は周囲の様子を確認をしようと見渡す。頭上には硝子細工のような蝶が光の鱗粉を撒き散らしながら飛び回っている。視線を下げると、貘や竜が倒れていた。彼らの傍にはキラキラと輝く何かが転がっており、雪に彩色しているようだ。
一羽の蝶がゆるゆると高度を下げて周たちの近くへ寄る。その蝶の行先は倒れ伏す槿だ。周は槿へにじり寄る。
「これは……」
槿の肩へ降り立った蝶とは別に、一羽の大きな蝶が羽で槿の目元を覆い隠している。ちょうど槿の目がある辺りからころん、と球体が零れ落ちる。涙よりも大きく、転がり落ちたそれは夢玉だ。槿の顔の辺りには夢玉が三十以上は転がっている。
「何これ……」
周は夢玉をいくつか手に取る。
そして、思い出す。苦しみながら倒れ伏した両親の姿を。それは周が実際に見た光景ではない。
その場にいたのは彼だ。
周の手から夢玉がひとつこぼれ落ちる。軽い音を立てて落ちた夢玉は白銀に埋もれる。
吐き出される白い息が揺れる。口元の震えの原因を周は理解したくないと思ってしまった。
「自ら、命を絶ったのではなかった……」
両親は毒を飲んで自ら命を絶った。周がそう認識したのはなぜだったか。
弟分の彼からそう聞かされたからだ。
胡蝶の夢が逃げたこともそうだ。周は何も覚えていなかった。側にいた彼の証言により、周は追放された。
周は項垂れる。どこもかしこも痛く、苦しい。意識も遠のいていく。
「僕は君のこと……ほんとうの、弟のように…………おもってたのに、な」
周の視界が滲む。空気は冷たいのに、目元は熱い。鉄錆の味が濃くなる。
弟分の目元から新たに夢玉が転がり落ちる。その夢玉に槿の肩で羽を休めていた蝶が飛び移る。美しい花の蜜を吸うときのような羽の休め方をしていた。
◇◇◇◇◇
賑やかな物音と何かが焼けるような匂いがする。望は小さく呻くと、ゆっくりと目を開ける。薄暗い中、目が慣れるまで時間がかかる。徐々に視界が晴れた望が認識した物は積み上げられた木箱だ。
望は痛む頭を押さえ、状況を把握しようと記憶の底をひっくり返す。
周と杏介と共に貘の一族を訪れた。長と夢の中で話をした後、襲撃に遭った。
赤。乱れた髪の長さは不揃いで、垂れる髪の隙間を縫うように流れた赤。白銀を一気に染め上げる赤。鉄錆の臭いがする赤。
生命活動を維持する赤。
「周!」
望は身体を起こす。身体の節々が小さな悲鳴を上げるも、そんなことに構っている場合ではない。自身の身体の痛みよりも、もっと痛みを感じさせる赤色に鼓動が逸る。
「起きたか」
木箱の向こう側からした声は杏介だ。望は木箱の向こう側を覗く。
漂う火の玉に照らされ、よう、と片手を挙げる杏介と毛布にすっぽりと身体を覆われて横になっている周がいた。望はかけられていた毛布に足をもつれさせながら、杏介の横に駆け寄り、周の顔を覗き込む。宙を漂う火の玉の橙色を受けてもなお、血色の悪さが目立つ。
「周は……」
「……起きてるよ」
うっすらと周の目が開かれる。
「よかった」
望は吐息まじりにこぼす。全速力で走った後のように身体の力が抜けていく。
「望も起きたことだし、ちょいと安心だな」
杏介は望の足にひっかかった毛布を絡めとると、肩に掛けてやる。
「ありがとうございます。……って、杏介さん、怪我を」
まず目に入るのは額の傷だ。腕や脚にも手当した様子が見られる中、右腕の包帯が痛々しさを物語る。
「大げさに見えるだろうが、そこまででもないさ。腕だけはちょっと重傷だけど」
杏介は右手を軽く持ち上げて苦笑する。
「望こそ、体調は? ぱっと見えるところの手当はしたけど」
こことか、と杏介は自身の頬を撫でる。望は杏介と鏡合わせになるように頬を撫でる。ザラリとした感覚は竜の鱗で切った傷だと気がつく。
撫でた指先がスイッチだったかのように足首が熱を主張する。
「足を捻ってしまったようで……」
望は痛む右足を見る。軽く動かすだけで、鈍い痛みが続く。
「……ん?」
望は足元から上半身へと視線を滑らせる。今更ながら、知らない衣を着ていることに気がつく。
「この服は?」
「血がついてたから。着替えは女性に頼んだから、そこは安心を」
「ご配慮ありがとうございます」
「服は荷物とまとめて置いてるから」
杏介は周の足元の方を指さす。三人分の荷物が固めて置かれている。
「足捻ったってな。歩けそう?」
「長距離でなければ」
「あとで見るよ。骨にヒビ入ってるかもしれないし、常盤街に帰ったら先生に診てもらおう」
「わかりました」
望は足首を撫でる。耐えられる程度の痛みのため、骨折まではいっていないだろう。
常盤街という単語が出たところで、望は改めて周囲を見渡す。
「ここは?」
床は木材、天井と横は布のような何かで覆われ、木箱が積まれている。何となく見覚えのある場所だ。
「行商の荷車の中。行きのとき、乗せてくれたおっちゃんいただろう? ちょっと無理言って乗せてもらった。着替えもおっちゃんの知り合いに頼んだ」
ついでだし、と杏介は状況の説明を始める。
「倒れてるお前たちを見つけて、下山。帰りはどうしたものかと足を探していたら、おっちゃんに会う。事情を説明したら、何とか都合つけてくれて途中まで乗せてくれることになった。今は休憩中って感じ」
「なるほど……。私、どれだけ寝てました? 今の時間は?」
「今は夕方だから……ちょっと長めの昼寝か?」
半日も眠っていたのか、と望は驚く。
「ご迷惑をおかけしました」
望は深々と頭を下げる。杏介も怪我をしているにもかかわらず、重傷の周と意識を失った望を抱えて下山。その後、帰りの手配や傷の手当をしてくれた。一番軽傷と思われる自分は呑気に眠りこけてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「気にするな。今後の予定だが、望の調子がよければ、夜行便に乗り換えて明日の朝には常盤街到着を目指そうかと思う。かなり急ぎの行程だけど、行けそうか?」
「私は平気です。でも」
望は周を見る。頭に巻かれた包帯や白い顔、毛布で見えないが大怪我をしていることを踏まえると、周が耐えられるのか心配だ。
「僕のことは気にしないで」
「こいつの提案だから」
なあ、と杏介に脇腹をつつかれた周は小さく呻く。
「よし、望が平気って言うなら手配してくる。飯の調達もしてくるから、望はそこの馬鹿見といて」
頼んだぞ、と杏介は軽やかに言って荷車を降りていく。
「……本当にいいの?」
望は杏介を見送った後、杏介が座っていた位置に移動する。
「何が?」
「周の身体」
望の脳裏をよぎるのは一点の混ざり気のない白い雪を染め上げた赤色だ。あの重傷で動くなど無茶だ。
「怪我の具合、よくないでしょ?」
「傷は塞いでもらったから。激しい動きをしなければ大丈夫」
僕よりも、と周は望を真っ直ぐに見上げると、眉を下げる。
「怪我させてごめんね」
望は目を見開く。自分よりも明らかに重傷の周に言われることではない。
周こそ、と望が言いかけると、頬に手が添えられる。袖が擦り落ち、痣や擦り傷のある腕が晒される。知らないその怪我に望の胸の奥が痛む。
「綺麗な顔に傷つけちゃった。傷、跡にならないといいけど」
周は望の頬を指で撫でる。指のすぐそばには細いが、長く目立つ傷がある。跡にはならないと思うが、万が一を考えると気が気でならない。跡にならないにしても、この傷が治るまでは目立って仕方がない。
「帰ったら先生に診てもらわないと」
ね、と同意を求める周に対し、月鏡が曇る。月鏡の持ち主は周の手を絡めとると、そっと腕を下ろす。
「一番の重傷者が何言ってるの? 着いたら一番に先生に診てもらって」
「そうだね。僕が一番手だね」
ふふ、と周は小さく笑う。
「でも、僕、平気だよ。丈夫だもん」
「人間よりは丈夫だろうけど、過信しすぎないで。先生のお墨つきみたいに言ってたけど、あの出血量は洒落にならない。傷も深いし」
こうして問題なく話せているが、重傷に変わりない。周が大丈夫と言っても、実態は違うはず。
痛みを耐える望に対し、周は、本当だよ、とへらりと笑う。
「だって、僕、死にたくても死ねないのだから」
世間話のように言う周に望の月鏡が大きく見開かれる。
「どれだけ大怪我をしても、毒を飲んでも、死にきれない。先生の手にかかれば治っちゃう」
周は腹の傷に手を添える。先ほどの杏介にされたように刺激が与えられると痛みが増すも、ずっと続く痛みには慣れてきてしまった。感覚が麻痺しているのかもしれないと冷静な自分がいる。
「だから、大丈夫。へっちゃらだよ」
「……何も大丈夫じゃないし、へっちゃらじゃない」
絞り出すように発された声音の主は凛とした月鏡で周の心の奥底を覗き込むように見つめている。
「丈夫なのはわかった。でも、痛みや苦しみがないわけじゃないでしょ」
望はぐっと拳を握る。巻き込まれた衣に皺が刻まれる。
何てことないように言いのける周がわからない。痛みや苦しみ、悲しみを嫌というほど知っているはずのくせに、瞳の奥は満たされたように穏やかだ。
「痛みや苦しみに慣れないで」
神秘的な光を放つ月のような瞳がゆらゆらと揺れている。案じてくれる優しい心に周は微笑みかける。
「でも、もう慣れてしまったのだから」
周の手の下、脇腹の鈍い痛みが一際強くなった。




