36.5
Now loading…
…………
弾く者のいない鍵盤楽器は朽ちて崩れた。
ソファは破れ、玉座には黄金の血が乾てこびりつき、地面には今も転々と血痕が残る。花は枯れ、土は乾き、調度はすべて朽ち果てた。それでも虹色の光だけが、ガラスの天蓋を通して昔と変わらず降り注いでいる。
朽ちた鍵盤に指を乗せても、なんの音もしない。
鍵盤楽器は、彼女の役割ではなかった。
彼女は歌うことが役割だった。姉が鍵盤を弾き、兄が四弦を奏でた。世界でたった三人きりの兄妹。兄は優しく、姉は陽気で、彼女は無邪気に未来を願っていればよかった。天の楽園。明るい空に浮かび、花が咲き、木々が生い茂り、王のための玉座があった。遍く人類に幸いあれ。兄妹は願った。ここでは純粋な願いと祈りのみが力を持ち、民は等しく彼女らを畏れ敬った。祈りは遍く地へ降り注ぎ、人々の暮らしを明るく照らした。
人が、■■など望まなければ、一生を楽園で過ごしていられたのに。
しかし、叶わぬことも分かっていたのだ。そのために神は兄妹を遣わした。わざわざ人のかたちを真似て、人が神に近づけるよう。
姿かたちが異なるものを、人は愛でこそすれ、真の憧れを抱きはしないものだから。
美しくあれ。清廉であれ。正しくあれ。確かに我らはそうあった。そうあるべきと遣わされた。
そして、いずれ斃され、神の眷属ではなくなるのだと。
ならば、なぜ、この心は、斃されることを喜びとしなかったのだろう。
斃され、手を放し、その上に咲き誇る文明を喜ぶことが出来なかったのだろう。
人が、われらの手から離れることを、許せなかったのだろう。
四百年経った。その間に心は擦り切れ、記憶は錆びつき、かつての愛だけが、むなしい熾火のように消えることなく燻っている。
愛さなければよかった。
愛など知らず、願いのみを持っていれば。祈りだけを持っていることが出来たのなら、四百年も待ち続けることはなかったのかもしれない。
鍵盤は鳴らない。四弦の音は海底に消えた。
陽気な姉は、もう鍵盤の弾き方など覚えていない。
猫の声が聞こえる。
女神が与えたもうた善き魂が、善き人を連れてやってくる。
世界を再び人のものに戻すために。




