mission32 少女の名は希望
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mission32 少女の名は希望
…………
カジャカは困っている。自分は耳が聞こえないし、声だって出せない。カジャカの意思を読んでくれる蒼熊は大きすぎて、いかに広い銀狼城砦と言えど、城砦内までは入れない。
ローランがいない。
風呂とかトイレとか着替えとか、台所にちょっとつまみ食いとかなどという感じではない。ローランはいなくなる時は必ず猫を置いていく。けれど、猫もいない。
ローランが、自分を置いていくはずがないのに。
何か事故とかに遭ったんだろうか。ああ見えてローランはあちこち悪い。足には古傷があるし、上半身は聖紋が灼きついて、防衛戦の後はじわじわと痛むはずだ。どこかで間抜けにも動けなくなっているのかもしれない。けれど、それならどうして猫が来ない? あの金猫はローランのことを舐め腐ってはいるけれど、カジャカの保護者としてだけは認めているはずで、カジャカからローランがいなくなったらとても困ることを誰より知ってるはずなのに。
耳の奥に、潮騒が響いている。
カジャカは焦る。今日、起きてから一度もローランの声を聞いていない。流石にもう女の子だから、と、ローランはカジャカとは別の部屋を借りている。いつもカジャカが迎えに行けば、寝ぼけた顔でおはようと言ってくれるのに、カジャカはあの声でしか人の中にいることがわからないのに、耳の奥に響くのは潮騒だけだ。ローランの部屋には誰もいない。外套は無く、外出用の靴もない。
あのローランが、自分を置いていくはずがないのに。
カジャカはローランの部屋を飛び出した。ローランがいない。どうすればいい。自分は声が出せない。耳だって聞こえない。誰に助けを求めればいい? 銀狼城砦はとても広く、客間のある西棟から主塔までは距離がある。ローランは先に主塔に行ってしまったのだろうか。自分を置いて? いつもなんだかんだ理由をつけて、絶対にカジャカを一人にはしないローランが?
西棟を走る。ローランがいない。ローランがいない。誰か、誰かカジャカが意思を伝えられる相手。そうだ、あのうざったいイライヤは? 会えばいつもべたべた抱きついてくるけれど、それ以外ならカジャカはイライヤのことが嫌いじゃない。ローランと同じで、カジャカのことを心底好いているのがわかるからだ。
でも、自分は声が出ないのに、どうやってローランの不在を伝えたら?
カジャカは立ち止まる。走ったところでカジャカが意思を伝えられる相手などいないのだ。自分は文字も書けない。そもそも文字を書ける人間なんて、大聖軸の歴史信仰管理士くらいだ。カジャカが文字を書けたとして、読める人間なんてもっといない。せめて猫がいたら、誰かにローランの不在くらいは伝えてくれるのに。
「……カ?」
潮騒の間に、声が聞こえた。
カジャカは耳を疑う。ローランの声ではない。もっと高い、弱そうな、幼くぼんやりした声だ。潮騒に紛れ、本当に微かに聞こえる。
「……う…たの……、ロー……は?」
背後から肩を叩かれて、カジャカは耳を押さえながら振り返る。黒銀の眼差しが、カジャカと同じ高さから見つめている。
救世主、ニーナ。
そうだ、この人の声だけは、ほんの少し聞こえる。
その隣で心配そうな顔をしているクラウナーの声も。
カジャカはクラウナーの服を引っ張る。ローランがいない。必死に伝えようと廊下の向こうを指さしてみる。部屋にいなかったのだ。あの人が自分を置いていなくなるなんて、ありえないのに。
クラウナーを押し除けて、ノワーレがカジャカの前に屈み込んだ。カジャカの目の前で、ゆっくり大きく口を開けて話してくれる。カジャカは唇が読める。ノワーレはこう言っている。
「ローランがいないの?」
カジャカは必死に頷いた。知らず、目尻から涙が溢れた。ニーナが慌てて拭ってくれる。涙は一度決壊したら止まらなかった。
ローランがいない。
あの人が自分の傍からいなくなるなんて、ありえないのに。
※※※※
ノワーレがとりあえずカジャカを茶室へ連れていくと、フランツが息を切らして駆け込んできた。
「すまない、お嬢様……いや、イライヤ様を見ていないか。今朝からお姿が見えない」
慌てた顔のフランツは泣いているカジャカを見つけると、息を整えながらカジャカの前に屈み込んだ。ニーナとクラウナーに挟まれて座っていたカジャカは、しゃくり上げながらフランツを見る。
「ローランもいないのか?」
唇を読んだカジャカが、泣きながら頷いた。
ノワーレは首を傾げる。耳の聞こえないカジャカの保護者であるローランはともかく、イライヤがいない程度、そんなに騒ぐことだろうか。あの人は気まぐれだから、ちょっと街に出るくらいするだろう。朝市で出来立てのチーズを食べたい、くらいは言い出しそうだ。
「出かけてるとかじゃなくて?」
ノワーレが聞くと、フランツは首を振る。
「戦時ならともかく、俺に黙ってどこかへ行くはずがない。お嬢様は、普段は自分では何もしないお方だ。どこかへ出かけるなら必ず俺を荷物持ちや足代わりに連れて行く」
それは人としてどうなのだろう、と思ったが、ノワーレは口には出さないことにした。大人の男であるフランツはともかく、カジャカが声もなく泣きじゃくっているのだ。ローランのことは早く探してやらねばならない。
「どこか行きそうなところ……、鼠で探せない?」
ノワーレが言うと、フランツは今気づいた、と言うように目を見開いた。そんなに狼狽することか、とノワーレは呆れる。フランツが指を鳴らし、鼠が数匹家具の隙間から現れたと思った途端、突然城砦全体を揺らすような雷鳴が轟き全員が声を上げた。
「えっ、何、雷?」
窓の外がみるみる暗くなり、再び地を揺らすような雷が落ちた。窓の外を見ると、空は真っ黒な雲に覆われて、黄金の稲光が瞬いている。
「……海だ」
ニーナが、窓の外を見ながら呟いた。
「二人とも海にいる。誘われたんだ……あの人に」
空を雪がちらつき始めた。真っ黒な雲に抗うように白い雪が降り、暴風を伴って瞬く間に猛吹雪となる。
「なんだ……あれ……」
クラウナーがニーナの頭越しに窓の外を見て、呆然と立ち尽くした。吹雪に白く烟る窓の向こう、流氷に覆われた海の遥か沖合に、黄金に輝く巨大な何かが見える。槍ではない。巨大な岩か、いや、どこか規則的な形は、何かの建造物のようにも見える。
再びの雷鳴と共に空が裂けた。吹雪を引き裂いて、稲光を纏った黄金に輝く槍の穂先が三本現れる。槍は巨大な黄金の建造物に向かって落下し、轟音を立てて流氷を貫き海へ突き刺さった。割れ砕けた流氷の隙間から黒い飛沫が跳ね上がり、蔦模様を描きながら突き立った黄金へ絡まってゆく。黒い蔦に絡まれながら、槍は割れ崩れつつその形を変えていった。突き立つ三本の真っ直ぐな柱。黒い蔦に支えられ組み上がる、円形の黄金の天蓋。滴る穢れた海の雫の下、柱の中心に、肘掛け付きの背の高い椅子があった。
「……玉座だ」
クラウナーが呟いた。
大聖軸の頂きにある布張りの豪奢な椅子。椅子の前には別珍の布が長く敷かれ、周囲に三本の柱が突き立っている。円形の天蓋からはオーロラ色の女神の威光が降り注ぎ、吊り下げられた宝石が揺れ、涼やかで華奢な音を立てていた。
クラウナーが物心ついた時から、エヴァは玉座を避けていた。あれに座ることができるのは私ではないのよ、と、何故だか悲しげに微笑んで。
吹雪の中、流氷の上に組み上げられた黄金は、クラウナーが知る玉座の形によく似ていた。
幾度目かの雷鳴。
吹雪の中で流氷が陥没した。真っ黒な飛沫を上げながら、黄金の玉座が海に沈んでゆく。
窓に張り付くように外を眺めていたニーナが、呆然と呟く。
「あの人のための椅子だ……きっと、海底にいる……」
クラウナーがニーナの後ろに立ち、そっと両目を手で覆った。
「ニーナ、見なくていい。戻って来られなくなる」
「だめ、見なきゃ……。だって、ローランもイライヤもあの人のところに誘われたんだよ。海の中はクラウナーだって見られないのに」
カジャカが泣きながら窓の外を見つめていた。フランツは呆然と、沈みゆく玉座を見つめている。
ノワーレの耳に、潮騒の音が満ちた。
心臓を侵す黄金が、強く脈動した。
「ニーナ……あの人って、誰」
ノワーレは恐る恐る聞く。答えを知っている気がする。いや、知らないはずだ。会った事などない。顔も知らない。けれどノワーレは、彼を知っている。
「わかんない……すごく、よく知ってるはずなのに……」
ニーナが頭を掻きむしり、クラウナーの手を振り払って泣きそうに顔を歪ませた。ノワーレは、何故だかひどく冷静な気持ちで口を開く。
「ニーナより……少し、年上だろう。私と同じくらいの年の、少年だね」
ニーナが驚きと絶望に満ちた目を上げた。ノワーレを見る黒銀の目からは、今にも涙が溢れそうだ。
「ノワーレ……なんで?」
「あいつは、私を刺した」
ニーナが呻きながら抱きついてきて、ノワーレは受け止める。ニーナにもわからないのだろう。それでも、危険だけはわかっているはずだ。
「だめだよノワーレ……あの人は、あの人だけはだめだ……わたしじゃなきゃ絶対に勝てない……」
「イライヤだけじゃない。あいつは、私のことも呼んでる」
ニーナはノワーレに抱きついたまま激しく首を振った。ノワーレはニーナを撫で、宥めながら、目の前で眉を寄せているクラウナーを見て言う。
「私が行く。私なら、海の中からでも帰って来られるはずだ」
クラウナーが何も言わずに目を伏せたとき、外から強烈なソプラノが響き渡った。
錆びついた四弦楽器の伴奏。海底から響く絶望と呪いの歌。
「……お嬢様の声だ」
フランツが、呆然と呟く。
泣き疲れたカジャカが濡れた顔を上げた時、絶望のソプラノに、虚無のテノールが重なった。
ローランの声だ。
カジャカの蒼白の顔が、そう言っていた。
…………
mission32 完了
緊急任務 沖に現れた玉座の正体を確認してください
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