第9話 ルナは、奏でます
放課後の旧校舎に、ピアノの音が響いていた。
新校舎が建てられてからも、旧校舎の一部は部活動の部室や用具室として使われていた。ただ、授業が終われば生徒たちの多くはグラウンドや体育館へ向かうため、校舎の奥まで足を運ぶ者はほとんどいない。
2階の一番奥にある音楽室も、今では吹奏楽部の備品置き場として使われるほかは、ほとんど人の出入りがなくなっていた。
そこには、古いグランドピアノが一台だけ残されている。長年使われてきた鍵盤は少し黄ばんでいたが、その音色は今も澄んでいた。
月がこの部屋を見つけたのは、入学して間もない頃だった。音楽の先生から放課後に使う許可をもらい、それ以来、時間のある日は一人でここへ来るようになった。
西日の差し込む音楽室には、細かな埃が光を受けて漂う。
月はグランドピアノに向かい、思い浮かぶままに演奏していた。
弾こうと決めていた曲はない。浮かんだ旋律に和音を重ね、その響きに合わせて次の音を選んでいく。どこへ向かうかも決めていない音楽が、途切れることなく続いていた。
そんなとき、昼休みに聞いた言葉がふと頭をよぎった。
『昨日、ちゃんと返したよ?』
茜の声だった。
何度思い返しても、お金を受け取った記憶はない。それなのに、茜も葵も、ほかのクラスメイトたちも、返したと言っていた。
自分が忘れているだけなのだろうか。
月は演奏を続けながら、もう一度記憶をたどった。けれど、どれだけ考えても、お金を受け取った場面は思い出せなかった。
人の言葉は、ときどき難しい。
言われたとおりに受け取っても、あとから違う意味だったと知ることがある。言葉にされなかった気持ちや、相手がどうして笑っているのかも、月には分からないことが多かった。
けれど、音は違った。
鍵盤に触れれば、その音が鳴る。別の音を重ねれば、響きは変わる。月にはその一つひとつが、はっきりと分かった。
右手の旋律に左手の和音を重ねると、目の前に淡い金色が浮かび、そこへ柔らかな水色が広がっていく。その間を流れる青が形を変えるたび、自然と次に重ねたい音が思い浮かんだ。
月はその色を追うように指を動かし、次々と旋律を生み出していった。音が重なるたびに新しい色や形が現れ、その先に続く音も自然と見えてくる。
夢中になって弾いているうちに、昼休みに聞いた声も、答えの見つからなかった疑問も、いつしか意識から離れていた。
今はただ、目の前に広がる音を追いかけていた。
*
テニス部の練習が終わる頃には、空が夕暮れの色に変わり始めていた。
練習中にラケットのガットが切れた凪は、予備のラケットを取りに旧校舎へ向かっていた。
テニス部は2階の一室を備品置き場として使用している。渡り廊下を抜けて階段を上がると、廊下の奥からピアノの音が聞こえてきた。
聞き覚えのない曲だった。
凪はそのまま教室へ入り、予備のラケットを取り出した。廊下へ戻っても、先ほどの旋律はまだ続いている。
柔らかく、穏やかな音。
旋律に重なる和音は繊細で、音が移り変わるたびに、その表情も自然に変わっていく。初めて耳にする曲なのに、不思議なほど心地よく、どこにも不自然な途切れがなかった。
凪も幼い頃から、教養の一つとしてピアノを習っていた。だからこそ、速い音の連なりにも乱れがなく、一音一音の強弱まで丁寧に弾き分けられていることが分かった。
誰が弾いているのだろう。ふと、そんなことを思った。
ラケットを手にしたまま、音のする方へ歩き出す。
廊下の一番奥にある音楽室の扉は、わずかに開いていた。その隙間から中を覗いた凪は、グランドピアノの前に座る人物を見つけた。
月だった。
いつも自分をしつこく追いかけ回す、鬱陶しいと思っていた少女が、今は凪の存在にも気づかず、ひたすら鍵盤に向かっている。
夕方の光がその横顔を照らしていたが、月は一度も顔を上げることなく、演奏を続けていた。
聞き覚えのない旋律は、おそらく彼女自身が作ったものなのだろう。
次にどんな音が続くのか、凪には予想がつかなかったが、ひとたびその音が鳴れば、まるで初めからそこにあるべき音だったかのように、自然に旋律へ溶け込んでいく。
その指先にに迷いはなかった。
凪は扉の前に立ったまま、しばらくその演奏に耳を傾けていた。
やがて手にしていたラケットを持ち直すと、月に声をかけることなく、来た道へ引き返す。
月は凪がそこにいたことも知らず、演奏を続けていた。
廊下に戻る間も、背後からピアノの音が聞こえていた。
【高校編・全48話執筆済み】※第10話まで毎日更新/以降、毎週水・日更新




