第7話 ルナは、頼まれました
朝のホームルームが終わり、1時間目の数学が始まった。
「それじゃあ、教科書の42ページを開いて」
教師の指示に、教室のあちこちで机の中を探る音が重なった。
月もいつものように、机の左側へ手を伸ばした。学校に置いて帰る教科書は、毎日同じ順番で重ねている。
ところが、指先に触れるはずの背表紙がなかった。
「あれ……?」
奥まで手を伸ばしても、何もない。右側にはノートや筆箱、昨日配られたプリントがいつもどおりに入っているのに、左側だけが空になっていた。
月は立ち上がり、机の中を覗き込んだ。
数学だけではない。現代文も、世界史も、英語もない。
昨日の放課後、確かにしまって帰った四冊が、すべてなくなっていた。
念のため鞄や教室の後ろにあるロッカーも確認したが、どこにも見当たらなかった。
「朝比奈、どうかしたか?」
教壇から声をかけられ、月は顔を上げた。
「……先生。ルナの教科書がありません!」
「忘れたんじゃないか? 家に持って帰ったとか」
「いいえ。ルナは昨日、ここに置いて帰りました。それに、現代文と世界史と英語もないんです」
教師は月の机を確かめると、眉を寄せて教室を見回した。
「誰か、朝比奈の教科書を見た者はいないか?」
返事はなかった。
教科書に目を落とす生徒もいれば、隣の生徒と顔を見合わせる者もいたが、誰も名乗り出ようとはしなかった。
「……分かった。とりあえず今日は、隣の人に見せてもらいなさい。放課後になっても見つからなければ、一緒に探そう」
「分かりました。ありがとうございます」
月は隣の生徒に頭を下げ、教科書を見せてもらうことになった。
その日、授業が変わるたびに教科書を借り、その都度礼を言った。
教室の後ろでは、数人の女子生徒が顔を見合わせ、小さく笑っていた。
4時間目が終わり、昼休みになった。
月が鞄から弁当を取り出そうとすると、机の横に西城茜がやってきた。
「朝比奈さん」
「はい」
「ごめん。急に委員会の集まりが入っちゃって」
茜は申し訳なさそうに両手を合わせた。
「今日、ベーカリーに限定のパニーニが出る日なんだけど、今からだと買いに行けなくて……朝比奈さん、代わりに買ってきてもらえないかな?」
月は教室を見回した。
「宮本さんには頼めないんですか?」
「葵も委員会があるの。ほかの子も用事があるみたいで……」
茜は困ったように眉を下げた。
「だから、朝比奈さんにしか頼めなくて。お願いできないかな?」
月は嬉しくなった。
茜が自分を頼ってくれている。それなら、きちんと期待に応えたい。
「分かりました!」
月が頷くと、近くで話を聞いていた女子生徒が振り返った。
「あ、朝比奈さん、ベーカリーに行くの? じゃあ、私の分もお願いしていい?」
別の机からも声が上がり、注文が次々と増えていった。
チキンのパニーニにベーグルサンド、飲み物やデザートまで頼まれ、月は慌ててメモ帳を取り出した。
「待ってください。順番にお願いします」
一人ずつ商品名と個数を確認しながら書き留めていくうちに、ページは細かな文字で埋まっていった。
「せっかくだし、みんなでテラスで食べない?」
女子生徒の一人が提案すると、周囲から賛成の声が上がった。
買った商品は食堂のテラスにある窓際の大きなテーブルへ届けることになり、月はその場所もメモ帳に書き加えた。
注文をすべて確認したところで、ふと手を止める。
「代金は、どうしたらいいですか?」
茜が周囲を見回した。
「これだけいるなら、一人ずつ渡すより、あとでまとめて精算した方が楽じゃない?」
何人かが同意すると、茜は再び月へ向き直った。
「朝比奈さん、いったん払っておいてくれる?」
「……分かりました」
「ありがとう! 本当に助かる」
茜は嬉しそうに笑った。
月は取り出しかけていた弁当箱を鞄へ戻し、財布とメモ帳を持って教室を出た。
昼休みのベーカリーは、大勢の生徒で混み合っていた。
月はメモ帳と商品を照らし合わせながら注文を揃えていったが、トレーは二枚使っても足りず、最後には店員が大きな紙袋を二つ用意してくれた。
「まあ、ずいぶんたくさん買うのね」
「はい。みなさんの分です!」
月は会計を済ませると、商品が潰れないよう気をつけながら袋へ収めた。
二つの紙袋を胸元まで抱え、月は人混みを避けて食堂棟へ続く渡り廊下に入った。荷物で前が見えにくく、歩くたびに揺れる袋を支えるだけでも精いっぱいだった。
向こうから男子生徒が歩いてきたが、荷物に視界を遮られ、月には足元しか見えなかった。ぶつからないよう壁際へ寄り、そのまますれ違った。
相手が凪だったことにも、月は気づかなかった。
「あっ!」
背後から聞こえた月の声に、凪は振り返った。
紙袋からパンの包みが一つ床へ落ちている。月が拾おうと身体を傾けた途端、反対側からも一つ滑り落ちた。
「あっ、待ってください!」
慌てて抱え直そうとしたものの、今度は紙袋そのものが傾いてしまい、月はその場から動けなくなった。
凪は小さく息を吐くと、来た道を戻り、床に落ちた二つの包みを拾い上げた。
「……?」
突然、視界の下から手が伸びてきた。月が顔を上げると、そこには凪が立っていた。
「一条先輩! ありがとうございます!」
嬉しそうに頭を下げた拍子に、二つの紙袋が一斉に前へ傾いた。
「あっ」
凪は咄嗟に手を伸ばし、落ちかけた荷物を押し戻した。
「お前……頭を下げるな」
「はい!」
紙袋が崩れないことを確かめた凪は、月の両腕を埋め尽くす荷物へ目を向けた。
「……それ、全部食べんの?」
「違います。クラスの皆さんに頼まれました」
「全部?」
「はい!」
「……お前、パシリでもやってるのか」
月は瞬きをした。
「パシリ?」
「……分からないならいい」
それ以上説明せず、凪は踵を返した。
「あの、一条先輩!」
呼び止められた凪が足を止める。
月は紙袋の向こうから顔を覗かせ、嬉しそうに笑った。
「今日も素敵です!」
凪は肩越しに一度振り返ったものの、何も言わずに歩き出した。
月はその背中を見送ってから、荷物を抱え直して食堂へ向かった。
食堂のテラスには、すでにクラスメイトたちが集まっていた。
窓際の大きなテーブルには、パスタやステーキプレート、サラダが並んでいる。月は抱えている紙袋と、テーブルの上の料理を見比べた。
「あれ……?」
月がテーブルへ近づくと、クラスメイトの一人が声をかけてきた。
「あ、来た来た。私のサーモンサンドどれ?」
「みなさん、パンを食べるんじゃなかったんですか?」
一瞬、周囲が静かになった。
「ああ、今はこっち食べてるだけ」
「パンはあとで食べるから。持って帰ってもいいし」
「そうなんですね」
月は納得すると、メモ帳で注文を確認しながら、一人ずつ商品を渡していった。
テーブルの中央には、西城茜も座っていた。友人たちと楽しそうに話しながら、パスタを食べている。
「西城さん、委員会はどうしたんですか?」
茜の手が一瞬止まった。
「ああ。思ってたより早く終わったの」
「そうなんですね」
「私のパニーニある?」
「はい!」
月が差し出すと、茜は受け取ったパニーニをテーブルの端へ置き、そのまま食事に戻った。
すべての商品を配り終えたところで、月はもう一度メモ帳を確かめた。注文したものはすべて渡せている。
けれど、誰も代金を払おうとはしなかった。
「代金は……」
「ああ、ごめん。今みんな食べてる途中だから、あとでまとめて払ってもいい?」
「はい。では、ルナは教室に戻ります」
月は空になった紙袋を畳み、テラスをあとにした。
教室へ戻る頃には、昼休みも半分以上過ぎていた。
ようやく弁当箱を取り出し、手を合わせる。
「いただきます」
その後も昼休みが終わるまで、代金を渡しに来る者はいなかった。
*
放課後になっても、教科書は見つからなかった。
担任と一緒に机やロッカーを確認したが、四冊ともどこにもない。
「おかしいな……」
教師は困ったように眉を寄せた。
「明日になっても見つからなければ、もう一度クラスのみんなに確認する。今日はもう帰りなさい」
「はい。ありがとうございました」
月は礼を言い、昇降口へ向かった。
靴を履き替えて校舎を出ると、月はいつものように校門へ向かった。
その途中、道沿いの植え込みから、濡れた紙の端が覗いていることに気づいた。
近づいてみると、何冊かの本が枝葉の間に乱雑に散らばっていた。開いたまま泥に埋もれているものもある。
そのうちの一冊に、見覚えのある表紙があった。
「……あ」
数学、現代文、世界史、英語。
朝から探していた4冊の教科書だった。
月はその場にしゃがみ込み、一冊ずつ拾い上げた。
ページは水を吸って波打ち、表紙には泥がついている。その上には、靴で踏まれた跡まで残っていた。
今日は朝から晴れていたのに、どうして濡れているのだろう。それに、なぜ教科書がこんなところにあるのかも分からなかった。
月は制服の袖で表紙の泥を払い、4冊を重ねた。
「……ここにあったんですね」
なくなっていた教科書が、全部見つかった。
月はそれを胸に抱え、児童養護施設「光の丘」へ続く道を歩き出した。
*
「おかえり、月」
光の丘へ帰ると、園長がいつもの笑顔で迎えた。
「ただいま帰りました」
月が靴を脱ごうとしたところで、園長の目が腕の中の教科書に留まった。
笑顔が消える。
「……どうしたの、その教科書」
月は泥のついた表紙を見下ろした。
「見つかりました」
「見つかった?」
「はい! 朝からなくなっていたんですけど、校門へ向かう途中の植え込みにありました」
月は嬉しそうに笑った。
園長は月の腕から教科書を一冊受け取った。
水を吸って波打ったページ。破れた端。泥の上に残された靴跡。
ページをめくる手が止まった。
「……誰かに何かされたの?」
月は考えた。
昨日、教科書を机の中にしまったことは覚えている。
けれど、そのあと何があったのかは知らなかった。
「分かりません」
小さく首を横へ振った。
「でも、全部見つかったので大丈夫です」
そう言って笑う月を、園長は黙って見つめた。
「……そうね。まずは乾かしましょう」
「はい!」
月は靴を脱ぎ、廊下の奥へ向かった。
園長は玄関に残ったまま、腕の中の教科書へ目を落とした。
月は幼い頃から、人の言葉を素直に受け取る子だった。誰かに意地悪をされても、その悪意に気づかず、何事もなかったように笑っていることがあった。
今日も、教科書が見つかったと心から喜んでいた。
けれど、泥だらけの表紙に残された靴跡は、偶然ついたものには見えなかった。
園長はその一つを指先でそっとなぞった。
【高校編・全48話執筆済み】※第10話まで毎日更新/以降、毎週水・日更新




