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ルナは、恋をした。―完璧な御曹司に振られたので、まず私のことを知ってもらうことにしました―   作者: たまご
高校編

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第14話 ルナは、呼べません

あの日から、いじめは少しずつ形を変えていった。


教科書を開けば、ページが何枚も切られている。

机の中のノートが、床へばら撒かれている。


けれど、そのことが園長へ伝わることはなかった。

すべてが学校の中で起こり、学校の中で終わっていたからだ。


その日も、廊下を歩いていた月の背中に、突然強い力が加わった。


「……っ!」


踏ん張る間もなく、身体が前へ投げ出される。

膝と手のひらを床へ打ちつけた。


遅れて、じんと痛みが広がる。


月は床へ手をついたまま、後ろを振り返った。


数人の女子生徒が、何事もなかったように通り過ぎていく。


「今、押しましたか?」


誰も答えない。

少し離れたところから、笑い声だけが聞こえた。


月はしばらくその背中を見ていた。


押されたことは分かる。

痛かったことも分かる。


けれど、どうして押されたのかは、やっぱり分からなかった。


*


その日の放課後。


旧校舎の音楽室に、激しいピアノの音が響いていた。


ベートーヴェンの『月光』第三楽章。


速く。

激しく。


月の指が鍵盤の上を駆けていく。


音は荒く、強かった。

必要以上に鍵盤を叩きつけ、次の音へ急ぐ。


一度、指が滑った。

それでも止まらない。


また一つ、音を外す。

月は構わず弾き続けた。


教科書を開けば、切られたページが落ちた。

廊下を歩けば、突然押された。


どうして。

何度考えても分からない。


分からないことだけが、ずっと頭の中に残っている。


月の指が、さらに速くなる。


強く。

もっと強く。

綺麗に弾けていないことは、自分でも分かっていた。


それでも、弾いている間だけは、何も考えなくて済んだ。


言葉にできないものが、音になって溢れていく。

激しい音は、開いた窓から旧校舎の外へ流れていた。


その音に、足を止めた人がいた。


テニス部の練習を終え、部室へ戻る途中の凪だった。


聞き覚えのあるピアノ。

誰が弾いているのかは、すぐに分かった。


以前聞いたときは、一音一音が不自然なほど整っていた。

今日は違う。


速い。

荒い。

何度も音を外している。

それでも、演奏は止まらない。


凪の眉がわずかに寄った。


やがて、最後の音が強く響いた。


静寂。


ほんの数秒後。

再び、激しい音が旧校舎から溢れ出す。


今度は、ショパンの『革命のエチュード』。


凪はしばらく音楽室の方を見ていた。


やがて視線を外すと、激しい音を背に、その場を離れた。


*


「先生」


職員室の前で、水瀬柚は担任を呼び止めた。


「何だ?」


「あの……朝比奈さんのことなんですけど」


「朝比奈?」


「最近、教科書を切られたり、廊下で押されたりしてて……」


担任の手が、わずかに止まった。


「……そうか」


「先生、気づいてたんですか?」


「前に見つかった教科書も、普通の状態じゃなかったからな」


「じゃあ、やっぱり――」


「ただ、本人からは何も言ってきてない」


柚の眉が寄った。


「でも、朝比奈さんって、たぶん自分で分かってないんだと思います」


「分かってる」


「だったら――」


「水瀬。この学校は、簡単に動けないこともあるんだ」


柚の口が止まった。


「誰がやったかも分かってない。本人も何も言ってない。今の段階で、こっちから騒ぎを大きくするわけ

にはいかない」


「……でも、何かあってからじゃ遅くないですか?」


担任は答えなかった。


「今日だって、廊下で押されてるんです」


「水瀬」


低い声に、柚の言葉が止まった。


「朝比奈には、何かあったら言うように前にも話してある」


担任は手にしていた書類へ視線を戻した。


「もう少し様子を見る」


柚は唇を結んだ。


「……それだけですか?」


少しの沈黙。


「今は、それ以上できない」


柚は何も言わなかった。


納得したわけではない。


けれど、担任はもう話を終えたように、手元の書類へ視線を落としていた。


「……失礼しました」


職員室を離れる。


――この学校は、簡単に動けない。

――本人からは何も言ってきてない。

――もう少し様子を見る。


その言葉だけが、柚の耳に残った。


*


数日後の放課後。


月が鞄へ教科書をしまっていると、机の横に影が落ちた。


顔を上げる。


西城茜だった。


その後ろには、いつもの女子生徒たちがいる。


「朝比奈さん」


「はい」


「ちょっと来て」


月の手が止まった。


「どこですか?」


「ちょっとだけ」


月は少し考えた。


「またトイレですか?」


茜が一瞬、目を丸くする。


「トイレなら行きません」


周囲の女子生徒たちが顔を見合わせる。


一人が吹き出す。


「何それ」


「前に水をかけられたので」


月は淡々と答えた。


「もう行きません」


茜が笑う。


「トイレじゃないって」


「では、どこですか?」


「来たら分かる」


月の眉がわずかに寄った。


以前も、同じことを言われた。

来たら分かる。


そう言われてついていって、水をかけられた。


月は鞄の持ち手を握った。


「ここで話してください」


一瞬、空気が変わった。


「……は?」


「話があるなら、ここで聞きます」


茜の笑顔が消える。


「朝比奈さん」


声が低くなった。


「来てって言ってるんだけど」


「でも、行きたくありません」


その瞬間。


後ろにいた女子生徒が、月の腕を掴んだ。


「……!」


強く引かれる。


「離してください」


「いいから来て」


反対側の腕まで掴まれた。


「痛いです」


「歩けば痛くないって」


笑い声が上がる。


「離してください」


今度は少し強く言った。


けれど、手は離れなかった。

女子生徒たちは月を囲むようにして、教室の外へ連れ出した。


「どこへ行くんですか?」


返事はない。


廊下を進む。

階段を下りる。


月の足取りが、少しずつ重くなった。


行きたくない。


月は足を止めた。


「やっぱり行きません」


「もうここまで来たんだからいいじゃん」


腕を強く引かれる。


「離してください」


「暴れないでよ」


「暴れていません。離してほしいです」


「うるさいな」


背中を押され、月はよろめきながら再び歩かされた。


そのときだった。


階段を下りた先。

廊下の向こうから、数人の男子生徒が歩いてきた。


「で、次の試合いつだっけ?」


「来週」


「お前また出んの?」


「出る」


短い声。


月は俯いたまま、足元を見ていた。


そして、視界の端に、柔らかな白が差し込んだ。


月の足が止まりかける。

顔を上げた。


一条凪。

友人たちの間を歩いていた凪も、こちらを見る。


目が合った。


周りの男子生徒たちは、まだ何かを話している。


けれど、月には、もう聞こえなかった。


一条先輩。

見つければ、いつだって嬉しかった。

今だって、そうだった。


でも今は、それよりも――

行きたくない。


月は凪の目を見つめた。


助けてほしい。


初めて、そんな言葉が頭に浮かんだ。


わずかに唇が開く。


けれど。

――俺に話しかけるな。

月の口が止まった。


――朝も。

――帰りも。

――俺を見かけても。


凪と視線が重なったまま、月は何も言えなかった。


凪の視線が、わずかに下がる。


月の両腕。

左右から、女子生徒たちに掴まれている。


「朝比奈さん、行くよ」


腕を引かれた。

月の身体が前へ動く。


そのまま、凪たちとすれ違う。

月は何も言わなかった。


凪は一瞬だけ振り返った。

けれど、足は止めなかった。


*


旧校舎へ続く渡り廊下に入る。


「どこへ行くんですか?」


「もうすぐ」


「何をするんですか?」


誰も答えない。


窓の外では、蝉が鳴いていた。

人の姿はほとんどない。


月は周囲を見回した。


普段、放課後にピアノを弾きに行く音楽室とは違う方向だった。


旧校舎のさらに奥。


ほとんど使われなくなった体育設備のある区域へ、女子生徒たちは進んでいく。


「ルナ、帰りたいです」


一人が笑った。


「すぐ終わるから」


「何が終わるんですか?」


返事はない。


背中を押される。


月は唇を結び、また歩き出した。


*


同じ頃。


忘れ物を取りに教室へ戻っていた柚は、その途中で女子トイレへ立ち寄った。


中へ入ると、洗面台の前に数人の女子生徒がいる。


その中の一人は、長い黒髪を高い位置でポニーテールに結んでいた。


柚には見覚えのない顔だった。


制服についた紋章から、三年生らしい。


柚は特に気に留めることなく、空いている個室へ入った。


「ちゃんと連れてった?」


「うん。茜たちが今連れてってるって」


笑い声。


「男の方はもう待ってるらしいよ」


柚は鞄を掛けながら、わずかに眉を寄せた。


「え、ほんとにやるの?」


「ここまでやってやめるわけないじゃん」


「でも、さすがにやばくない?」


「今さら?」


また笑い声がした。


柚は、耳を澄ませた。


「でもさ、朝比奈って、ああいうのでも泣かなそうじゃない?」


手が止まった。


朝比奈。


柚が顔を上げる。


「さすがに今回は泣くでしょ」


「男もいるしね」


「でも茜が言ってたじゃん。あの子、何されても全然分かってないって」


笑い声が重なった。


柚はすぐに個室を出た。


三年生たちの顔を一瞬だけ見る。


それから、何も言わずトイレを出た。


廊下へ出た途端、足取りが速くなる。


教室へ戻った。

扉を開ける。

真っ先に月の席を見る。


いない。


鞄だけが、机に残されていた。


柚は近くにいた男子生徒へ駆け寄った。


「朝比奈さん、どこにいるかわかる?」


「朝比奈さん?」


「うん」


「ああ。さっき西城さんたちと出ていったよ」


「どこへ?」


「知らない。なんか大勢で出てったけど」


柚の表情が固まった。


――朝比奈。

――男もいるしね。

――さすがにやばくない。


そして、鞄を置いたまま、どこかへ連れていかれた月。


嫌な予感が、一気に形を持った。


柚は教室を飛び出した。


職員室へ向かって走る。


けれど、廊下の途中で足が止まった。


―― この学校は、簡単に動けないこともある。

――本人からは何も言ってきてない。

――もう少し様子を見る。


今から説明して。

聞いたことを話して。

本当なのか確認されて。


また。

『様子を見る』

そう言われたら。


柚は職員室へ続く廊下を見た。


ほんの一瞬だけ迷う。

それから、踵を返した。


走り出す。

向かったのは、二年生のフロアだった。


教師がすぐに動いてくれるかは、分からない。


でも、あの人なら。

この学校でも、無視はされない。


階段を駆け上がる。

二年A組へ続く廊下を曲がった、そのときだった。


向こうから、数人の男子生徒が歩いてくる。

その中に、見覚えのある顔があった。


柚の足が止まる。


「一条先輩!」


声が廊下に響いた。


男子生徒たちが一斉にこちらを見る。


凪も足を止めた。


息を切らした柚が、そのまま駆け寄る。


「……何」


「朝比奈さんが……」


柚は一度、大きく息を吸った。


「朝比奈さんが、危ないんです」


誰も、すぐには言葉を返さなかった。

【高校編・全48話執筆済み】毎週水・日更新


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