第13話 ルナは、気づきません
凪に「話しかけるな」と言われてから、しばらく経った。
月はその約束を守っていた。
それでも、凪を見つけたときだけは、月の表情が少し明るくなる。
凪の声が聞こえれば、いくつもの色の中に柔らかな白が浮かぶ。
少しだけ、その姿を見る。
それだけだった。
凪の方から話しかけてくることもない。
だから二人の間には、本当に何もなくなった。
*
「朝比奈さん」
昼休み。
月が教科書を閉じたところで、机の横から声がした。
顔を上げる。
西城茜の友人が立っていた。
「はい」
「ベーカリーでこれ買ってきて」
小さなメモを渡される。
クロワッサン。
サンドイッチ。
カフェラテ。
「分かりました」
「私もお願い」
別の女子生徒からもメモを渡された。
いつの間にか、それは珍しいことではなくなっていた。
最初は、一度だけのはずだった。
けれど気づけば、昼休みになると誰かが月の机へやってくる。
代金についても、月は何度か尋ねていた。
けれど。
「今、細かいのないんだよね」
「あとでまとめて返す」
「覚えてるから大丈夫」
返ってくるのは、いつもそんな答えだった。
買い出しはその後も続き、立て替えた代金は少しずつ増えていた。
返すと言っているのだから、いつか返してくれる。
月はそう思っていた。
財布を開く。
硬貨が数枚。
一枚ずつ数えてから、月は顔を上げた。
「全部は買えません」
「え?」
「お金が足りないです」
女子生徒が財布を覗き込み、笑った。
「じゃあ、買える分だけでいいよ」
「どれを買えばいいですか?」
「適当に」
月の眉が寄った。
「順番を決めてもらえますか?」
「じゃあ私のカフェラテ」
「私のサンドイッチ先」
「マフィン売り切れるかも」
三人が口々に言い始める。
月は全員が話し終わるまで待った。
「分かりました」
メモと財布を持ち、教室を出る。
その背中が見えなくなってから、一人が笑った。
「ほんと、便利屋よね」
*
それから数日が経った昼休み。
また女子生徒が、月の机へ買い出しのメモを置いた。
月はそれを受け取らず、先に尋ねた。
「前のお金は、いつ返してもらえますか?」
女子生徒の顔から、笑みが少し消える。
「今度まとめて返すって言ったじゃん」
「今度とは、いつですか?」
「……今月中」
月は財布を開いた。
「でも、ルナはもう今月使えるお金がありません」
「だから返すって言ってるでしょ!」
突然大きくなった声に、月の肩が跳ねた。
反射的に両手で耳を塞ぐ。
目をぎゅっと閉じた。
女子生徒が一瞬黙る。
それから、隣にいた友人と顔を見合わせた。
「……何それ」
くすっと笑う。
月はまだ耳を塞いでいた。
「じゃあ明日は買えるようにしといてよね」
二人はそれだけ言い残し、月の机から離れていった。
足音が遠ざかってから、月はゆっくりと手を下ろした。
今月中。
返してもらえる期限は、決まった。
なら、それまでは待てばいい。
月には、それ以外の方法が分からなかった。
*
その日の放課後。
帰り支度をしていた月の机を、いくつもの影が囲んだ。
顔を上げる。
西城茜と、いつもその周りにいる女子生徒たちだった。
六人ほどいる。
「朝比奈さん」
「はい」
「ちょっと来て」
「どこですか?」
「トイレ。手伝ってほしいことがあるの」
月は首を傾げた。
「トイレで、何を手伝うんですか?」
「来たら分かるから」
「……分かりました」
鞄を机へ戻し、立ち上がる。
女子生徒たちについて、廊下の端にあるトイレへ向かった。
中へ入ると、茜たちは月を奥へと促した。
「何を手伝えばいいですか?」
誰も答えない。
一人が、いちばん奥の個室を指した。
「そこ、ちょっと見てくれる?」
月は個室の中を覗き込んだ。
「何を――」
突然、背中を強く押された。
「……っ!」
身体が前へよろける。
慌てて壁へ手をつき、振り返った。
目の前で扉が閉まる。
「?」
月はすぐに取っ手を掴んだ。
手前へ引く。
開かない。
もう一度、強く引いた。
扉がわずかに動いたところで、外から押し戻された。
「開けてください」
返事の代わりに、笑い声がした。
月は両手で取っ手を握る。
身体を後ろへ引くようにして、もう一度力を込めた。
「開けてください」
「ちょっと待ってて」
「何をですか?」
くすくすと笑う声だけが返ってくる。
月はまた扉を引いた。
その瞬間だった。
個室の扉の上から、大量の水が降ってきた。
「きゃっ……!」
肩が跳ねる。
冷たい水が頭から顔、首筋へ一気に流れ落ちた。
息を整える間もなく、二杯目が降ってくる。
「……っ!」
月は咄嗟に頭を庇った。
髪が頬へ張りつく。
ブラウスが肌へまとわりつき、スカートが急に重くなる。
靴の中にまで水が入った。
外から笑い声が響いた。
「やば!」
「床びしょびしょ!」
月は濡れた髪を顔から払い、頭上を見た。
「……水をかける必要があったんですか?」
一瞬。
外が静かになった。
その直後。
さらに大きな笑い声が上がった。
「必要って何!」
「ウケる!」
手伝ってほしいと言われたから来た。
個室を見るように言われたから、中へ入った。
それなのに、閉じ込められて、水をかけられた。
何のためにそんなことをしたのかは、分からない。
「もう出てもいいですか?」
返事はなかった。
代わりに、甲高い笑い声とともに、何人もの足音が一斉に遠ざかっていく。
月はもう一度、取っ手を掴んだ。
今度は、簡単に開いた。
トイレには、もう誰もいない。
床には水が飛び散り、自分の制服からも絶えず雫が落ちている。
月はしばらく、女子生徒たちが消えた出入口を見ていた。
どうして水をかけられたのか。
それは、やっぱり分からない。
けれど。
冷たかった。
もう一度、同じことをされるのは嫌だった。
月は濡れた髪を払い、教室へ鞄を取りに戻った。
*
教室で鞄を取ると、そのまま昇降口へ向かった。
ブラウスは肌へ張りつき、スカートは水を吸って重い。
靴下まで濡れていた。
気持ちが悪い。
早く帰って、着替えたい。
月の頭にあるのは、それだけだった。
少し俯いたまま、足早に廊下を歩く。
だから、向こうから凪が歩いてきていることにも、気づかなかった。
凪は視線の先に月を見つけた。
足取りが、わずかに緩む。
「……」
濡れた髪。
水を吸った制服。
歩くたび、髪やスカートの裾から雫が落ち、廊下に点々と跡を残していた。
白いブラウスは身体へ張りつき、濡れた生地が下着の色まで透かしていた。
その格好のまま、月は俯いて歩いている。
月は顔を上げない。
凪の存在にも気づかないまま、その横を通り過ぎた。
すれ違う瞬間だけ、凪の視線が横へ流れる。
「……」
けれど、足は止めなかった。
そのまま数歩進んだ。
そのとき。
階段から、二人の女子生徒が廊下へ上がってきた。
「――先生も見逃してくれればいいのにさ」
「ほんと厳しすぎない? だって――」
「おい」
二人の会話が止まった。
「え?」
顔を上げる。
そこにいた凪を見て、二人の表情が一気に変わった。
「一条くん……!」
「カッコいい……!」
凪は反応しない。
顎だけで、自分が歩いてきた方を示した。
「あれ、どうにかしてやれ」
「あれ?」
二人が振り返る。
廊下の先を、髪から水を滴らせた女子生徒が歩いていた。
「え、何あの子」
「びしょ濡れじゃん……」
凪はそれ以上何も言わず、二人の横を通り過ぎた。
「ちょっと待って!」
二人が慌てて月を追いかける。
声に気づき、月が足を止めた。
「はい?」
近くまで来た二人は、月の姿を見て息を呑んだ。
「うわ……大丈夫?」
「どうしたの、それ」
月は二人を見る。
「水をかけられました」
「え……」
女子生徒たちが顔を見合わせた。
そのうちの一人の視線が、月の胸元へ落ちる。
「あっ……」
慌てて自分のカーディガンを脱いだ。
「これ着て」
「でも、濡れます」
「いいから」
月は差し出されたカーディガンを見る。
少し迷ってから受け取った。
「ありがとうございます」
濡れた制服の上から羽織る。
「保健室に行こ。着替え借りられるかもしれないから」
「でも、帰れば服があります」
「その格好じゃ帰れないって」
月が首を傾げる。
女子生徒が声を落とした。
「……ブラウス、透けてるから」
月は自分の胸元を見る。
「あ」
そこで初めて気づいた。
「行こ」
「分かりました」
促されるまま、月は歩き出した。
なぜ突然、話したこともない上級生が自分を追いかけてきたのか。
月には分からなかった。




