第12話 ルナは、約束します
順位表が貼り出されてから、数日が経った。
その日の朝も、月はいつもと同じ時間に昇降口へ入った。
ローファーを脱ぎ、上履きへ履き替える。
靴をロッカーへ入れようとしたところで、少し離れたところに、見慣れた姿が目に入った。
「一条先輩!」
凪が、こちらを見る。
「おはようございます!」
月は嬉しそうに笑った。
「今日も素敵です!」
「……」
返事はない。
凪はそのまま校舎の奥へ歩いていった。
月はその背中を見送ると、自分も教室へ向かった。
ただ。
「ほら、また」
近くで誰かが笑った。
「最近、一条先輩、あの子とは普通に話すんでしょ?」
月はロッカーを閉めた。
一条先輩。
その名前だけが耳に残った。
けれど、何の話をしているのかまでは分からなかった。
月はそのまま教室へ向かった。
*
昼休み。
「一条先輩、朝比奈さんのこと好きらしいよ」
教室の後ろから聞こえた声に、月の手が止まった。
一条先輩。
朝比奈さん。
両方とも知っている名前だった。
月は後ろを振り返った。
数人の女子生徒が机を囲んで話していた。
「そうなの?」
「よく2人でいるじゃん」
「でも朝比奈さんが勝手に話しかけてるだけじゃない?」
「一条先輩も返事してるんでしょ?」
「じゃあ、本当にあり得るんじゃない?」
月はしばらく聞いていた。
けれど。
途中から分からなくなった。
箸を置き、立ち上がる。
そのまま女子生徒たちのところへ行った。
「すみません」
話していた生徒たちが、一斉に月を見る。
「……何?」
「今の話ですが」
月は真剣な顔で尋ねた。
「一条先輩が、ルナを好きだというのは、どういう意味ですか?」
一瞬。
沈黙が落ちた。
それから、一人が吹き出した。
「本人来たんだけど」
「聞こえてたんだ」
「はい、一条先輩の名前が聞こえたので」
また笑い声が上がる。
「じゃあ聞くけどさ」
一人の女子生徒が面白そうに月を見る。
「朝比奈さんと一条先輩って、両想いなの?」
「違います」
即答だった。
女子生徒の笑顔が止まる。
「……え?」
「一条先輩は、ルナを好きだと言っていません」
「いや、そういうことじゃなくて」
月は首を傾げた。
「では、どういうことですか?」
「……」
別の女子生徒が、笑いを堪えながら聞く。
「じゃあ、朝比奈さんは一条先輩のこと好きなの?」
「はい!」
今度も即答だった。
「ルナは一条先輩が好きです!」
教室のあちこちから笑い声が上がる。
月は周囲を見回した。
「?」
質問に答えただけだった。
「何かおかしかったですか?」
「朝比奈さん、本当に面白い」
月は少し考えた。
けれど、やはり理由は分からなかった。
「でも」
月は、女子生徒を見る。
「一条先輩がルナを好きだというのは、違います」
「だけど、本人が言ってなくても好きなことくらいあるでしょ」
月の眉が、わずかに寄った。
「言っていないのに、どうして分かるんですか?」
「……」
女子生徒たちが黙った。
月は答えを待った。
けれど。
誰も説明してくれない。
「まあ、そのうち分かるんじゃない?」
一人が笑いながら言った。
月には、何が分かるのか分からなかった。
「そうですか」
月は自分の席へ戻った。
頭の中には、さっきの会話が残っている。
一条先輩が、ルナを好き。
そんなことは、一度も言われていない。
だから違う。
月の中では、それで話は終わっていた。
*
「一条」
午後。
移動教室へ向かっていた凪が、後ろから呼び止められた。
同じクラスの男子生徒が、妙に楽しそうな顔で歩いてくる。
「お前、あの一年の朝比奈と付き合ってんの?」
凪の足が止まった。
「は?」
男子生徒が吹き出す。
「やっぱ違うの?」
「何の話」
「噂になってるぞ」
凪の眉間に皺が寄った。
「なんで」
「なんでって、毎朝話してるからじゃない?」
「向こうが勝手に話しかけてくるだけだ」
「俺に説明されても」
男子生徒が肩をすくめる。
凪は歩き出した。
「くだらない」
その隣へ並びながら、男子生徒が続ける。
「でも結構広まってるぞ」
凪の足取りが、わずかに遅くなる。
「何が」
「お前、朝比奈のことまんざらでもないんじゃないかって」
凪が横を見る。
「あるわけないだろ」
即答だった。
「朝比奈は一条のこと好きらしいけど」
「……」
「まあ、知ってるか」
凪は答えなかった。
そのまま、歩く速度を上げた。
*
放課後。
月は教室を出て、昇降口へ向かった。
ローファーを取り出し、上履きを脱ぐ。
そして。
今日も凪は定刻通り現れた。
月の表情が明るくなる。
「あっ、一条先輩!」
凪が足を止める。
月は嬉しそうに笑った。
「さようなら! 今日は――」
「朝比奈」
言葉が止まった。
月の目が大きくなる。
凪が、自分の名前を呼んだ。
初めてだった。
「ルナの名前初めて――」
月の言葉を遮るように、短く言った。
「もう俺に話しかけるな」
月の笑顔が止まった。
数秒。
何を言われたのか確認するように、凪を見る。
「……どうしてですか?」
「面倒なんだよ」
「何がですか?」
凪の眉間に皺が寄る。
「お前が毎日話しかけてくるせいで、くだらない噂が立ってる」
「噂……」
「俺がお前を好きだとか、付き合ってるとか」
昼休みに聞いた話が、ようやく繋がった。
「それは違います」
「当たり前だ」
「一条先輩は、ルナを好きではありません」
「ああ」
月は口を閉じた。
分かっていた。
最初から。
一条先輩に好きだと言われたことは、一度もない。
だから違う。
ずっとそう思っていた。
なのに。
本人の口から聞いたその言葉は、胸の奥に小さく引っかかった。
月は胸元へ手を当てた。
それが何なのかは、分からない。
「でも、噂が間違っているなら、違うと説明すればいいと思います」
「そういう問題じゃない」
「では、どういう問題ですか?」
「俺は、そういう噂を立てられるのが嫌なんだよ」
凪の声に、薄く赤が滲んだ。
柔らかな白の奥へ、わずかに混じる。
「お前とそういうふうに見られるのも嫌だ」
月は凪を見る。
一条先輩は、ルナとの噂を嫌がっている。
胸の奥の引っかかりが、少しだけ強くなった。
けれど。
原因が噂なら、間違っていることを訂正すればいい。
「ルナが皆さんに説明します」
「いらない」
「でも――」
「余計面倒になる」
月は黙った。
自分が説明するのも駄目。
一条先輩も説明したくない。
それなら。
「じゃあ、どうすればいいですか?」
凪は月を見る。
「だから」
低い声だった。
「俺に話しかけるな」
月は動かなかった。
凪は続ける。
「朝も」
月の目がわずかに動く。
「帰りも」
いつも挨拶をしていた時間。
「俺を見かけても、話しかけるな」
月はようやく、その範囲を理解した。
朝の、
おはようございます。
帰りの、
さようなら。
それも全部、駄目ということだった。
月は数秒黙った。
「……分かりました」
凪は何も言わない。
「もう、一条先輩には話しかけません」
「……ああ」
月は小さく頷いた。
けれど。
すぐに顔を上げる。
「一つ聞いてもいいですか?」
「何」
「一条先輩からルナに話しかけた場合は、返事をしてもいいですか?」
凪は一瞬黙った。
「その心配はいらない」
月が瞬きをする。
「俺からお前に話しかけることは、絶対にないから」
迷いのない声だった。
月は凪を見つめた。
ほんの少しだけ間を置いてから、頷く。
「……分かりました」
これで、確認することはなくなった。
ルナから、一条先輩へ話しかけない。
それだけ守ればいい。
凪は何も言わず、そのまま月の横を通り過ぎた。
月は振り返った。
いつもなら、
「一条先輩、さようなら!」
そう言うところだった。
唇が、わずかに開く。
けれど。
――俺を見かけても、話しかけるな。
月は口を閉じた。
凪の背中が、昇降口の向こうへ遠ざかっていく。
やがて、その姿が見えなくなった。
月はしばらく同じ場所に立っていた。
胸の奥には、まだ名前の分からない感覚が残っている。
それでも。
「……ルナは、一条先輩が大好きです」
誰もいなくなった先へ、小さく呟いた。
好きなことまで、やめろとは言われていない。
*
その日の夜。
月は机に向かい、いつもの小さなノートを開いた。
一条凪という人を知るために、少しずつ増やしてきた記録。
『一条先輩は朝、八時十分頃に登校することが多い』
『昼休みは食堂にいることが多い』
『声は白。柔らかく広がる』
月は新しい行へペン先を置く。
少しだけ止まってから。
丁寧な文字で書く。
『一条先輩に話しかけない』
その一行を、じっと見つめた。
――俺からお前に話しかけることは、絶対にないから。
昼間の声が蘇る。
明日から、話しかけない。
それが今日、一条先輩に言われたことだった。
*
翌朝。
いつもと同じ時間。
いつもと同じ昇降口。
月はローファーを脱ぎ、上履きへ履き替えていた。
そのとき。
少し離れたところに、友人と歩く凪の姿が見えた。
月の手が止まる。
一条先輩。
いつもなら、すぐに声をかける。
月は反射的に顔を上げた。
「あっ」
目が合う。
表情が、いつものように明るくなりかける。
「おは――」
声が出かかった。
けれど。
月はすぐに口を閉じた。
昨夜、ノートへ書いた一行が頭に浮かぶ。
『一条先輩に話しかけない』
凪は何も言わない。
月も何も言わなかった。
上履きを履く。
ローファーを揃える。
立ち上がる。
そして。
そのまま凪の横を通り過ぎた。
凪は足を止めることなく、そのまま歩いていく。
ただ、それだけだった。
月は数歩先で振り返る。
凪の背中が、小さくなっていく。
約束したから。
朝も。
帰りも。
見かけても。
もう、自分からは話しかけない。
その日から、月は本当に一度も、一条凪へ自分から声をかけなくなった。
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