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ルナは、恋をした。―完璧な御曹司に振られたので、まず私のことを知ってもらうことにしました―   作者: たまご
高校編

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11/22

第11話 ルナは、変わりません

球技大会から、ひと月半ほどが過ぎた。


梅雨も終わりに近づき、朝から湿った空気が校舎の中まで入り込んでいる。


あの日以来、月は凪の後を追っていなかった。


廊下の向こうに姿を見つけても、追いかけない。

食堂で見かけても、近くには行かない。

移動教室の途中なら、少し遠くから眺めるだけ。


凪が嫌がることはしない。

そう決めていた。


それでも、偶然顔を合わせたときの挨拶だけは続けていた。


挨拶は、誰でもするものだから。


後ろをついて歩くこととは違う。

月は、そう考えていた。


とくに朝は、登校する時間が重なることが多い。

その日も、昇降口で靴を履き替えていた月は、少し離れた場所に見慣れた背中を見つけた。


「あっ」


表情がすぐに明るくなる。


「一条先輩!」


凪が顔を上げた。


「おはようございます! 今日も格好いいです!」


「……」


凪は月を一度見ただけだった。

履き替えた靴をロッカーへ入れ、そのまま校舎の奥へ歩いていく。


月は、その背中は追わない。


「今日も会えました」


小さく笑って、自分も教室へ向かう。


放課後も同じだった。


たまたま昇降口で帰る時間が重なれば、

「一条先輩、さようなら!」

と挨拶する。


それだけ。


返事がなくても、追いかけない。


それが、一か月以上続いていた。

月は凪が嫌だと言ったことを守りながら、それでも変わらず凪が好きだった。


朝に会えれば嬉しい。

遠くに姿を見つければ、少し眺める。

帰りに会えれば、また嬉しい。


ただ。


一条凪がどんな人で。

何を考え。

何を好きで。

何を嫌うのか。

月は、相変わらずほとんど分からないままだった。


*


「やっぱり朝比奈さんじゃん」


休み時間の廊下で、女子生徒の声が上がった。


「今回も一位」


「入学してからずっとじゃない?」


声の先には、人だかりができていた。


廊下の掲示板に、一年から三年までの定期試験の順位表が並んでいる。


一年生の一番上。


一年A組 朝比奈 月


最初の定期試験でも一位。

そして今回も、同じ場所に名前がある。


「勉強だけは本当にすごいよね」


「推薦だもん。それくらいできないと困るんじゃない?」


褒めているようで、どこか棘のある声が混じる。


月は人の隙間から、自分の名前を見つけた。


「一位でした」


小さく呟く。


口元が、ほんの少し緩んだ。

園長先生に見せたら、きっと喜んでくれる。


そのまま視線を横へ滑らせる。


二年生の順位表。

その一番上。


二年A組 一条 凪


「……!」


月の顔が、一気に明るくなった。


「一条先輩も一位です!」


周囲の生徒が何人か振り返った。

月は一年生と二年生の順位表を交互に見る。


朝比奈 月。

一条 凪。


二人の名前が、それぞれ一番上にある。


月の口元が緩んでいった。


「同じです」


「何が同じなの?」


すぐ横から声がした。

振り向くと、西城茜と、その友人たちが立っていた。


「順位です」


月は二枚の紙を指した。


「ルナも一位で、一条先輩も一位です」


「へえ」


茜が微笑む。


「朝比奈さん、今回も一位だったんだね」


「はい」


「すごいね。勉強好きなの?」


月は少し考えた。


「分からないことが、分かるようになるのは好きです」


「さすが首席」


隣の女子生徒が、くすっと笑った。


「朝比奈さんって、本当に勉強だけはできるよね」


「ありがとうございます!」


月は嬉しそうに頭を下げた。


一瞬、女子生徒たちの笑顔が止まった。


茜が小さく吹き出す。


「……ほんと、朝比奈さんって面白いね」


「そうですか?」


月が首を傾げる。


そのとき。

人だかりの向こうに、見覚えのある横顔が見えた。


「あっ!」


茜たちとの会話もそのままに、月はすぐにそちらへ向かった。


「一条先輩!」


二年生の順位表を確認し、その場を離れようとしていた凪が振り返った。


月は凪の前まで来ると、後ろの掲示板を指した。


「見ましたか?」


「……」


月は後ろの掲示板を指す。


「一条先輩、一位でした!」


「知ってる」


「ルナも一位でした!」


凪の視線が、一年生の順位表へ移った。

一番上。


朝比奈 月。


その名前を見て、もう一度月へ視線を戻す。


「……お前が?」


「はい!」


月は勢いよく頷いた。


「一条先輩と同じです!」


凪が二枚の順位表を見る。


一年。

二年。


「学年が違うだろ」


「そうですね」


凪が歩き出そうとする。


「でも」


また月の声が飛んだ。


「どちらも一位です」


月は嬉しそうに続ける。


「一条先輩と同じだから、嬉しいです!」


「……」


「それに、一条先輩が一位なのも嬉しいです!」


凪は数秒、月を見た。


「俺が何位でも、お前に関係ないだろ」


「はい。関係はありません」


即答だった。


「でも、嬉しいです」


「……」


凪は小さく息を吐いた。

何も言わず、そのまま歩き出す。


月は追いかけなかった。

ただ、その背中を嬉しそうに見送った。


いつもの挨拶より、ずっとたくさん話せた。

それだけで十分だった。


「……今、一条先輩、あの子と普通に話してたよね」


後ろから声がした。


「朝比奈さんと?」


「最近、朝よく話しかけてるじゃん」


「あの子が一方的にでしょ」


「でも今、普通に返してたよね」


交わされる声は、月の耳には届かなかった。


*


放課後。


月は返却された試験用紙を鞄の中へきれいに揃え、教室を出た。


昇降口へ向かう廊下には、部活動へ向かう生徒や帰宅する生徒が行き交っている。


前方では、三人の女子生徒が楽しそうに話していた。


月が近づく。


そのうちの一人が、月に気づいた。


一瞬、目が合う。

けれど女子生徒は、何事もなかったように友人へ顔を戻した。


月が横を通り過ぎようとした、そのとき。

女子生徒が、半歩だけ横へ出た。


「あっ」


肩がぶつかる。


手にしていた透明なカップが、大きく傾いた。

冷たい液体が、月の胸元へ一気に流れ落ちる。


「……!」


アイスコーヒーだった。


白いブラウスに茶色い染みが広がっていく。

氷が床へ転がった。


「あら!」


女子生徒が口元へ手を当てる。


「ごめんなさい、朝比奈さん。気づかなかったわ」


その後ろで、二人が顔を見合わせた。


「大丈夫?」


「ずいぶんかかっちゃったわね」


月は自分の制服を見下ろした。


ブラウスの胸元から腰にかけて、茶色く濡れている。


指先で触れる。

冷たい。


「大丈夫です」


顔を上げた。


「帰ったら洗います」


女子生徒は少し意外そうな顔をした。


「……怒らないの?」


月は首を傾げる。


「怒る?」


「だって、制服こんなになっちゃったのよ?」


月はもう一度、自分のブラウスを見る。


確かに汚れている。


少し考えた。


「でも、もうかかってしまいました」


女子生徒を見る。


「今から怒っても、かかる前の状態には戻りません」


三人が一瞬、黙った。


やがて、一人が吹き出す。


「……そっか」


月は床へ目を向けた。


転がった氷。

落ちたストロー。

空になった透明なカップ。

そのまましゃがみ込み、一つずつ拾い始める。


「ちょっと朝比奈さん、何してるの?」


「誰かが踏んだら滑ります」


氷を一つ。

もう一つ。


月が床を片づけている間に、三人の足音は遠ざかっていった。


「朝比奈さん」


別の声がした。

月が顔を上げる。


水瀬柚が立っていた。


柚は月の濡れた制服を見る。

床に残った水滴を見る。

そして、廊下の向こうへ遠ざかっていく三人の背中。


その順に視線を動かし、眉を寄せた。


「……これ、使って」


鞄からハンカチタオルを取り出し、月へ差し出した。


月はタオルと柚を交互に見た。


「いいんですか?」


「うん」


「ありがとうございます」


両手で受け取る。


月はすぐに濡れたブラウスを擦ろうとした。


「待って」


柚が止める。


「擦ったら染みになるから。上から押さえるだけ」


「そうなんですか」


「うん」


月は言われた通り、ハンカチをブラウスへ当てた。


ぎゅっと押さえる。

白いハンカチへ、薄い茶色が移った。


「汚れました」


「いいよ」


「洗って返します」


「そのままでいいって」


「でも、水瀬さんのものなので」


柚は少し困ったように月を見る。


「……じゃあ、洗って返して」


「はい」


月は頷いた。


柚はもう一度、三人が消えていった廊下を見る。


「朝比奈さん」


「はい」


「さっきの……」


言葉が止まった。


月は黙って続きを待った。


数秒。


柚は月を見る。


「……ううん」


小さく首を横へ振る。


「何でもない」


「そうですか」


月はそれ以上聞かなかった。


*


昇降口へ着く頃には、制服の湿り気も少しずつ引いていた。


それでも、白いブラウスには茶色い染みがはっきり残っている。


月はローファーへ履き替えた。


そのとき、廊下の先から凪の姿が見えた。


月の表情がぱっと明るくなる。


「あっ、一条先輩!」


凪の視線が月へ向く。


「さようなら!」


その視線が、ほんの一瞬だけ下へ落ちた。

白いブラウスに残る、大きな茶色の染み


「……」


凪は何も言わず、そのまま靴箱へ向かった。


「気をつけて帰ってくださいね!」


月は小さく頭を下げる。

凪が靴を履き替える。


「あ!」


月が声を上げた。


凪の手が止まる。

月は大きく息を吸った。


「ルナは今日も、一条先輩が大好きです!」


「……」


凪は月を見なかった。

わずかに眉間へ皺を寄せ、そのまま校舎を出ていく。


月は凪の姿が見えなくなるまで見送った。


月と凪の距離は、その日も何も変わらなかった。

それでも、月にとっては悪い一日ではなかった。


朝にも会えた。

順位表の前では、いつもよりたくさん話せた。

帰りにも、ちゃんと挨拶ができた。

月はそれだけを考えて、いつもと変わらない足取りで帰っていった。


月が校舎を出たあと、廊下のどこかで、誰かが言った。


「今日、一条先輩が朝比奈さんと話してたよ」


「順位表の前で?」


「結構普通に話してたらしいよ」


ほんの数十秒の会話だった。


けれど、その短いやり取りは人から人へと渡っていく。

一人増えるたびに、少しずつ話には尾鰭がついていった。

【高校編・全48話執筆済み】毎週水・日更新


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